1977年のドラフトで女子投手水原勇気を1位指名した
東京メッツ
女性のプロ入りを禁止した野球協約の突破など
様々な難関をクリアし、晴れてプロ野球選手になった
水原は、入寮しそこで10年二軍捕手の武藤と出会う
小仏二軍監督から武藤は水原の教育係に任命されるが
その武藤にトレード話が持ち上がった
ガハハハ、よくやったな水原
マウンド上で水原を抱きかかえる武藤
いや、しかしあの球の落ち方・・・あれは・・・
まさに『ドリームボール』だ!
水原~ドリームボールだ!
王さんを三振に打ち取ったドリームボールだ!!
突然水原の部屋に飛び込んでくる武藤
あの落ち方は凄かったぞ水原
ドリームボールでセ界制覇も夢じゃないっ!
夢じゃないぞ!!
水原「ムギュッ」
王さんが打席に立っててなぁ、そこにインコースに
甘く入ったんだ、俺は正直「ヤバイ」と思ったよ
しかしそこから外に曲がりながら落ちるんだ・・・
夢の話を水原に真剣に語る武藤
ありゃあ凄い変化球だ
なんてったって、世界の王をあれだけ見事に
三振に打ち取ったんだぜ
む・・・武藤サン・・・でもそれ・・・
夢の話ですよね・・・・(=◇=;)
怯える水原
バカいえ!
あれは夢であって夢じゃない!!
お前なら絶対あの球を投げられるんだ!!!
何故か自信満々の武藤(^o^;)
独り勝手に張り切る武藤に、山井記者から朗報が
なんと武藤のトレード話が流れたのだという
よっしゃー、これで何の心配もなくドリームボール
開発に専念できるぞーガハハハハ
まずは水原の細い体に筋肉を付けるために
ウエイトトレーニング
見ろ水原
プロの筋肉ってのはこうでないとダメなんだ
力コブを見せる武藤
最近武藤のやつ水原にウエイトトレーニングさせとる
そうやな・・・
水原はおなごや、リリーフで3回もったらええねん
無駄に筋力トレやらせて潰れたら元も子もない
武藤にすぐ辞めさせるように言え
鉄五郎は、武藤の教育方針に不満らしい
そんな鉄五郎の考えは知らず、自分にもプロ野球選手
としての筋肉が付くかなと呑気に考える水原
キャッ、なっ・・・なんの用です武藤さんっっΣ(・ω・ノ)ノ!
訴えますよ
水原、風呂で手が温まったらこのボールを指で挟む
練習をしろ!
あとこのゴムボールを常に握って握力を鍛えるんだ
このおっさんの頭の中には野球の事しかないらしいw
やった、今度は張本だγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ
しかしまたも武藤の夢オチ
おいノブ子、今度は張本を三振に打ち取ったぞ
いよいよわしと水原で、天下を取ってやるんだ!
ますます張り切る武藤
いや、夢だと笑わんでくれノブ子
わしは今までお前たちに苦労かけっぱなしだった・・( ´(ェ)`)
ドリームボールはその苦労に報いてやれる
わしの最後の武器になるかもしれんのだ
わしは家族のためにも必ずドリームボールを
完成してみせるぞ!
武藤さんはガチだった(`・ω・´)
一見ただのルーキーの入寮だったが、二軍監督小仏は
武藤を水原から引き離すための差し金だと見抜く
小「帯刀よ、どうせ岩田さんから言われて来たんだろ」
帯「い・・・いやそれは・・・」
いいか帯刀、これはわしの命令じゃ
武藤と水原の事に口出しするな!
戸惑う帯刀
一方武藤と水原は本格的にドリームボールの開発に
着手していた
ドリームボールは基本的にフォークだと考えた武藤は
水原にフォークの練習をさせる
しかし最初から上手く行くはずもなく、ドリームボール
構想はかなりの前途多難なスタートとなった、、、
果たして武藤のドリームボール開発は成功するのか
そして鉄五郎の動向も気になる・・・
2-3 女投手誕生 につづく
さて、水原勇気のルーキーイヤーとなった1978年
この年のオフに持ち上がったのが有名な「江川事件」
である
江川さんは、今でこそ時期巨人監督にという声も高い
愛想の良いおじさんだが、この当時はまさに日本一の
嫌われ者にされ、マスコミももはや犯罪者扱いだった(´_`。)
江川さんが甲子園で注目されたのは3年の春のセンバツから
センバツでの最多奪三振記録60や8連続奪三振記録は
今も破られていない
しかしそれ以上に地方大会での成績はすさまじく
ノーヒットノーラン9回、完全試合2回とまさに怪物ぶりを発揮
高校時のドラフトでは阪急に1位指名されたものの
それを蹴って法政大学に進学
大学4年時の1977年(水原のドラフトの年)には、クラウンライター
ライオンズ(現埼玉西武の前身)から1位指名を受けたが
「福岡は遠すぎる」という意味不明の理由(笑)でこれも拒否
ここらあたりから「え?何こいつ」的な印象が世間に
芽生え始める
そして決定的に世間を敵に回したのが1978年11月21日だった
当時クラウンの指名を拒否して米留学中だった江川さんは
前日の20日に突然帰国
21日に讀賣巨人軍が江川さんの「ドラフト外入団」を
電撃発表したのだ( ̄□ ̄;)
現在のドラフトでは、交渉権を持った球団と選手との交渉期日は
社会人で、その翌年の1月31日、その他は3月31日までだが
当時のドラフトでは、交渉権獲得から次のドラフトの前々日までが
交渉期日とされていた
つまり巨人は、クラウンの交渉権期日が切れた「空白の一日」を
狙って江川さんに入団交渉を持ちかけたのである
これいまだに完全にルール違反だと言う声もあるが
ルール違反と言うより、正確にはルールの不備が原因だった
この当時の協約では、ドラフト対象選手は「社会人または
日本の中高大学に在籍している者」であり、学生でもなく
社会人でもない江川さんは事実上「ドラフト対象外」だったのだ
もちろんそんな事は知らない他球団ファンは激怒
またいくらルールの不備とはいえ、こんなケースがまかり通ると
ドラフトの意味がなくなると、セ・リーグ会長が「こんな
契約は無効だ」と裁定下したため大混乱になった
(まあそりゃそうだわね)
しかし当時の巨人は強気だった
「もしこの契約が無効だと言うなら、うちはセ・リーグ脱退して
新リーグ作ってやる!」と反発、火に油を注いでしまった( ̄□ ̄;)!!
その結果巨人は1978年のドラフトは前代未聞の欠席
ルール上では「ドラフト対象外」のはずの江川さんを阪神が
1位指名したうえ、コミッショナー(犬神では勿論ない)が
これを有効と認めたため、巨人も態度を硬化
この時のコミッショナーは金子鋭(かねこえつ)という
画面中央のスキンヘッドのおっさんだったが、巨人が本当に
リーグ脱退する勢いだったため、その解決策として
「とりあえず江川君は、阪神に入団しなさい、それで阪神は
契約と同時に江川君を巨人にトレードしなさい」という
鉄五郎の協約突破も真っ青な協約破りをコミッショナー自身が
やらかしてしまったのだ
※当時も新入団選手の開幕前トレードは協約で禁止されていた
この説得により、巨人も空白の1日で交わした江川さんとの
契約は白紙に戻し、最初はこのコミッショナー裁定を拒否
していた阪神も最終的に受け入れ、あの江川⇔小林の
電撃トレードとなった
がしかし、事態はこれで収束というわけには行かなかった
「このトレード自体協約違反じゃないか!」という批判が
再燃し、その結果コミッショナーの金子は辞任
巨人と阪神のトレードも、形式上は江川、小林のトレードは
別個のものとされ、「小林は阪神へ交換選手なしの移籍」
「江川が阪神で受け取った契約金を巨人が阪神に
支払い巨人へ移籍」
という特殊な金銭トレードという形になった
ちなみにこの頃俺は巨人ファンになって2年目くらい
中にはこれがきっかけで巨人ファンやめるというやつもいたけど
「たかが一選手の事でよくこれだけ熱くなれるな」
というのが正直な感想だった
冷めた目をした中学生だったんだなw
また当時は江川さんの全盛期を知らなくて、最初に登板した時
130キロ台後半くらいの、そのへんにゴロゴロいる平凡な球で
「えーっ、こんなん獲るためにあんな大騒ぎして小林出したのか」と
かなりガッカリしたのであった(^▽^;)