禁煙猿
 
Amebaでブログを始めよう!

動機付け

冬。早朝。ベランダで。空は綺麗に晴れ、雲が風に舞う。
街は年末へ向けてあわただしい。
俺。タバコ。ベランダで。
相変わらず目を覚ますのはこれ。
一日無事に過ごし、夜になり、リセット=初期化されているはず(たぶん)だが、悲しいかな習慣というのはおそろしいもので、体に刷り込まれている行為を拒絶するのは容易ではない。

いつのまにか、タバコをやめることを忘れてしまっていた。
正確には、最初からあまり厳格にやりすぎると罪悪感や不全感に悩まされてしまうので緩やかにソフト・ランディングを狙ったつもりだが、柔らかすぎてランディングしないで、ちょっと足をついただけでまた飛び上がってしまったのである。
けして着陸できない。着陸する意思はたぶんあるんだろうが、着陸できそうにない。この一年は時々こんなことを考えては一服し、「こりゃだめだ、やっぱ明日の朝からだな」と思っては、朝になれば忘れている、というのを繰り返す日々。
あほである。いやんなる。

久しぶりに友人Kから電話がかかってきた。
「禁煙も2日目になるとね、頭がきもちいいんだよ!体も疲れないし!疲れないんだよお、ほんとに。なあ、おれたちゃ要は単に一酸化炭素中毒でらりってたのかもしんないよ」
「禁煙続いてるねえ」といえば、
「あ、ちなみに俺は禁煙じゃないから!絶煙です。もうタバコとは縁がないんだから」という。
あんぐりしながらも、うらやましい。そして自分のだめさが身に沁みる。
それでも俺が反応したのは、「2日目で気持ちがいいのか!しかも疲れないのか!」なのであった。

肺癌だの無気肺だの脳卒中だのというネガティブ・イメージではなく(時にネガティブイメージも大切だとはいえ)、「気持ちよくなる」、これである。脅しや不安に屈せずタバコや薬物(この場合はもちろんニコチン)にけして隷属せず、快楽/幸福を追うのだ!一度そういう回路が開かれてしまえばもうこっちのものだ。繰り返しコネクトすることでネットワークは恒常化し、そしてさらなるネットワークを広げていく。
そこに至るまでいささかきついのかもしれないが、まあそれはそれだ。楽ばかりのわけはないのだ。人生とはたぶんそんなもの。セラヴィ。俺は大人だからそんなことはいやんになるくらい知っているのだよ(当たり前だ)。

woman let me be.

地下鉄C線。車内は比較的空いている。
若い女が俺の前に坐った。いい女だ。タイトスカートの淡いクリーム色のスーツ。髪はかわいらしくまとめている。いわゆるEBIちゃん風なんだろう。でも品がない。だから色っぽいのかもしれない。はすっぱ。柔らかそうである。そして坐り方。太ももがゆるい。かといって眠っているわけではない(当たり前だ)。

ふと目をやる。相手も俺を見る。そしてしばらく俺をじっと見つめたかと思うと、女は、すこしずつとても自然に、太腿を開き始めた。かといって下着が見えるほどではない。太腿の奥のほうがやっと見えるくらい。体を少し斜めに傾けて、さらに脚を開いていく。しかし女は体を傾けているので、俺の方からはやはり見えそうで見えない。女はガムをくちゃくちゃかみながら、あごを少し下げ、斜め上方を眺めるように、俺を見つめる。俺が女を見つめると、女はふと恥らったように下を向く。しかし、まあ、ただの身振りである。もちろん。脚はそのままだ。

そのうち、わざとらしく、いったんシートの奥のほうに尻を押しやり、スカートの中を一瞬見せ、何度か脚を組み替えた。女は俺が彼女を見ていることを当然知っているのだ。もうここまでくれば、えい侭よ。これはゲームなのだ。俺は彼女を見つめていた。いったいどういう表情をして女はこれほどまでに『女』になるのか。俺は興味深かったのだ。そして冷静でありながら、俺も男だった。いかん。彼女は俺をからかっているのか、それとも誘っているのか。どちらでもかまわない。たぶん、彼女にしてみれば自然に身についた素振りなのかもしれない。女であることに、男に嘗め回されるように見られることに慣れた行為。俺はそのうち、眼と目の間の頭の奥のほうがじーんとしてくるのを感じた。それと同時に下っ腹が少し疼く。しかし、こんなことでは大事にはならない。こんなことで大事になっていたら身が持たない。

性欲(というか肉欲だな、これは)というのは不思議なものである。俺は猛烈にタバコが吸いたくなった。しかし今日はあいにくタバコを持ち歩いていない。頭の中でわけの分からぬエネルギーがうよんうよん動き回っている。俺は途中で電車を降り、空と光を求めて地下から逃れた。女は勝ち誇ったかのように、過ぎ行く電車の窓から俺を見ていた。

なぜこうしたときにタバコが吸いたくなるのだろうか。
性的な衝動がかなえられることのできないストレスを代償しようとしているのかもしれないし、単に喫煙者が何かと吸う理由をつけているだけかもしれない。まったくこれでは、麻薬中毒者の告白である。

W・バロウズが求めた自由、感じていた不自由。
それが俺にはわかるか?

俺は不自由だ。それだけは言える。

もはやno plotized

 『人間らしい生き方』をするために、俺は『常にドープでにこにこデイリーライフ』と『ドープは最小限(もしくはノードープ)で耐え忍ぶスレイヴライフ』を使い分けることにしたのである。片方により過ぎるのはよろしくない。中道、中庸たらんですよ。
 エレクトリック・バナナをつかんでくれ。プラスティック眼球めがけてそれを誇示してくれ。ううたまらん。いいじゃないか。ベイビー・スイート・デコーデッド・マンゴーはそろそろ熟れたか?
 そう、ドープである。人は生きていくために、何がしかのもの——それが栄養素であったり、水分であったり、ヴィタミンであったり、はたまた文字や、映像、宗教、アヘンだったりするのであるが——を必要としている。
 人間はか弱い。あまりか弱くない輩もいるが、基本的はか弱い。と思う。とはいえ、実は結構しぶといもんである。それに死ぬのも楽じゃない。生きていくのはもっと大変だ。生きていくためには、ものが多すぎてもいけないし、なにもなければそれも苦しい。しなさすぎも、しすぎもいけない。若人よ、中庸たれ、である。
 なぜかように哲学的なことをふと思ったのかといえば、私は弱いからである。「自分の弱さばかりが目に付く」のである。イチロースズキがいえば飛びっきりピッカピッカなフレーズもニコチン・ジャンキーズがいえばちっともかっこよくないのがつぼである。
何が弱いか、そう、ニコチンジャンキーのニコチン切れがやってきたのである。
 たとえば、このなにやら妙に落ち着かない様相を、傍目には気づかせないように、外面ソフトで生きていけば、そのうにょうにょ感は内に向く。Go to inner universe.果て無き脳の片隅までぶよんぶよんとこの想念を追いやっても、肉体というけだし弱者は悲鳴を上げる。「スレイヴライフ」を実感するのは、まさにこのときだ。ニコチン・ジャンキーズでなくとも、この感覚は誰だって分かるはずである。腹が減ったとき、なんだか切なくなってしまったとき。君だってそういうことがあるだろう。そういう時どうする?
 そのときに、社会的に容認されていること/ものでなんとか生き延びていけるかどうかが、人を悪へいざなうか、善として至れるかを左右するのである。
 脳は生きていきたいのである。常に自分が快を感じている状態にいたいのである。それが倫理的な意匠か否か、そんなもんじゃなかろうか。快というのは人によってさまざまであるから、人によっては何でこんなわずらわしい状況を我慢しているのだろうか?といぶかるような場合もあるが、それはそれ。いろいろとよんどころない事情があるにせよ、その状況にならざるを得ないのだし、極端に言えばその状態を望んでいるのかもしれぬ。例えば、愚痴っぽい人間がいたとする。何でもかんでも文句を言う。周りにとってはとんでもなく煩わしい。もしかしたら、本人もわずらわしいと感じているのかもしれない。とはいえ、ほんとうは、その文句を言う状況がすきなのだよ。かの人は。
 もしくはこうもいえる。同じものを見ていても見えているものが違うのかもしれない。たぶんそっちが本命じゃないだろうか。「こんだけもってれば余裕じゃん」と思うか「もうこんだけしかないじゃないか」と思うのは、天と地の差であることよ。
 「でもそんなことあるわけないじゃないか、つらいから愚痴るんだ」というのが普通の感覚だろうが、脳内ドープ理論では違うのである。つらい—愚痴る—愚痴を言って本人は快楽を得る—でも周りには不愉快。そう、本人はたぶんそういう状態が快なのだ。そういったネガティブ・イオンをあらかじめまとわないようにする生き方と、ネガティブ・イオンを発してしまう生き方、生き方には二通りあるかもしれない。要はどちらを選ぶかだと思う。不思議なもので、ネガティブ・イオンをあえて好む人もいるのである。インターネットをみればいい。ネガッチーがうようよいるじゃないか。寒気さえ感じるほどの無感情と悪意、悪意とすら認識していない場合すらある。品がない。性質が悪い。すでにネガティブ・イオンに浸かっている。それが体液となっている。それが空気なのだ。人間は何でも慣れていく。慣れるというのは、つねにセンサーを開ききった状態では疲弊疲労してしまうために、人間が生きやすくする術である。いい慣れ、悪い慣れ。結局感受性の問題か?

2006年9月27日 ――偏頭痛



季節の変わり目のせいか、はたまた低気圧のせいか——ここ最近雨が続いているのだが、今日はとりわけしけた日だ——、眼ががんがんする。そう俺は 偏頭痛もちなのである。眼ががんがんでおもいだしたが、眼癌(がんがん)という呼び方はふつうしない。眼球それ自体ががん化することがないからだと言われ ているが、眼球に癌が転移することはあるわけで、そうそれはすればガンガンである。正確にはちょっとちがうかもしれないが、まあいいのだ。ガンガン或は眼 癌などといわないのは、たぶんあほみたいだからだろう。シリアスにならないだろうから。

チョコレートは偏頭痛を誘発するのである。油断してTOPSのチョコレートケーキをばくばく食べたのが災いしたらしい。または、ここのところ疲れていたため体が警告しているのか。いずれにせよ、薬を飲んでおとなしくやりすごすしかないのである。

偏頭痛といえば、芥川龍之介の偏頭痛持ちであったのは有名である。晩年の作品である『歯車』に閃輝暗点(せんきあんてん)について書かれている。

一般には偏頭痛の予兆とされ、眼の奥で偏頭痛発作がはじまるまえに歯車のようなものがきらきらと見えることから閃輝暗点と呼ばれている。ちなみに 虫が飛んでいるように見えるのは網膜剥離、壁に虫が這っているように見えるのがアル中、宇宙から指令がくるのが、、、まあそれはいいとして。

閃輝暗点に続いて猛烈な頭痛がやってくるのである。俺の場合何故か決まって右側である。白髪も右側が多いし、前にやられたヘルペスも右だ。たぶん右側が好きなんだろうな、やつらは。
発作が始まると、あまりにも酷いと、光、匂いに敏感になってしまう。眼を開けていれば光が増幅され視界はサイケデリックにぐよんぐよん揺らいでく るし、まともに眼も開けていられない。いつもなんてことのない香りも増幅され鼻粘膜から脳へ槍を刺すかのごとく強烈にブロウする。こういう時に美人が心配 して介抱してくれたとしても、もしその美人が香水をつけているとか、煙草を吸っているとか、懐中電灯を持っているとか(は?)、こうした刺激があまりにも きつすぎて、美人に甘えることすら出来ないのである。ああ、なんて因果な病気なのだろう。くっそー、とおもわず口にだしてしまう秋の午後。芥川が「誰か私 の首を絞めて殺してくれないか」と書いた気持ちがわからんでもない。いや、彼が偏頭痛故にかいたかどうかはまったく知らないが。

2006年9月12日 火曜日

火曜日は忙しい。一服している暇もありゃしない。
始終動き回っている間はまあいいのだが、暇になると余計なことを考え出す。考え出すと、頭がヒートアップする。そしてすぐ煮詰まる。適度な休みが必要だ。テレビも言ってる。休め。
 この場合問題となるのは、時々無理やり時間を作り、すなわちとんずらして一服しにいくことで、適度な集中力を保ち、機嫌を保ち、high qualityの仕事を提供することを選ぶか、中毒治療を優先させ、すなわち休まず、働きつつ、きりきりするかなのである。
 これらは非常に難しい。人間は社会的生物であるから、社会を社会とたらしめている役割としての仕事を優先させ、high quality and high standardでお届けするのが、皆様にとっても、そして俺にとってももちろんいいわけだが、まあ、そんなに完璧にばかりはいかないのが現状である。そ れがこの世の常でもある。少なくとも俺にとっては。みんな、そんなもんだろ?たぶん、と嘯く。
 一方で、high quality and high standardであるために薬物を摂取しなければならない、というのは、よろしくない。常にドーピングしてドープ化し、その結果立派なワーカホリックに なってしまうのである。今皆様に見える俺は俺ではありません。これはただのドープです。共同幻想です。記憶の残骸なのですよ。

2006年9月1日 金曜日

結局のところ、禁煙できないでいるのだ。
問題は朝である。眠っておきて目を覚ますための一服、これは別段タバコがうまいわけではない。というか、うまくない。一晩眠ってニコチン断ちした 肺に、異物であるところの煙を思い切りいれるのだから、朝からむせる。げほげほげほ。しかしこれをやらないと目が覚めないのである。かくして朝の一本でそ の日の禁煙は挫折する。そうだ。休日ならそれほどストレスがかかるまい。そうだ休日にやればいいのだよ。そうだそうだそうしよう。らんら、らんら、らん。 (BGMはVelvet Undergroundの”Run Run Run”でいってみよう)。
よくよく考えてみれば、All or Nothing at allで考えすぎなんじゃないないの?とも思うが、これは薬物中毒で、その治療のために俺はがんばっているのだ!ということになれば、やはりAll or Nothing at all でないとならんのだ。「本数はすんごい減ったんだよ。一時期の三分の一だもん」なんていっていたのではたぶん駄目なのであろう。友人・菊池は言う。
「あのね、かわいこぶってもだめ。それに減らすのはかえってきついよ。つーかさ、それ無理だよ。ぜんぜん無理。パーフェクト無茶。やるなら朝だ ね。そんでさ、夜のうちに、”Smoke Last My Cigarette” とElvis Costelloの歌でも歌いながら、この世の最後の一服となる予定の煙草を楽しむのだ。それからおもむろに道具はすべて破棄するのがコツだね」
「コステロの歌だったら毎晩歌ってるよ」といえば、
「じゃ、ちがう禁煙切ないソングでもうたえばいいじゃないか、あほか、君は」とかえされる。あにはからんや。あっちょんぶりけ。

2006年8月28日 月曜日

俺はタバコが大好きであるとともにこれから大嫌いになるのである。密封密室タクシーで、灰皿満杯に茶色く変色した吸殻が放つ、すえたむうっとする 匂いや、これはなぜか自分が吸っていないときに限るが、他人が吸ったタバコの紫煙が風に乗ってくると、心臓の血管がきゅっとまるで音でも立てるかのように 縮みあがり胸が苦しくなる。医学的にはニコチンによる心血管の一過性れん縮に伴う胸部苦悶感という。簡単に言えば一過性の狭心症みたいなものである。
そういや最近調べた心電図もなんだかおかしかったし、最近咳がとまらない。おまけに、気管の奥のほうで痰が絡んでいるようで、塊が上下するばかりでちっとも排出されない。気管の自浄作用も劣化しているのだろうか。
例えばこんな按配。
「ごほっごほっごほっげほっ、があああ。んがんが。ううんっ。んっんっ。かああ、ぺえっ」
ああ、きたねえ。
というわけで、俺はタバコを止めることにした。いわゆる禁煙である。
マーク・トゥエインは『禁煙なんて簡単だ。私は今まで何十回もやっている』とのたまっていたが、これはいい得て妙である。
俺は睡眠薬を飲まないと眠れない。だから、朝はぜんぜん目が覚めないし、午前中、半分はぼーっとしている。タバコはいわば気付け薬みたいなものな のだ。おまけに強度のカフェイン中毒者でもあるから、ニコチンとカフェインの相乗効果で脳がやっと目を覚ますといった具合である。
タバコが止められないというと、意志薄弱だとか、自己管理がどうだとか、時間の無駄だとか、金の無駄だとか、くさい、とかまあいろいろといわれ るわけで、実際問題いいことなんて、まあほとんどないとも言える。あえていいことをあげるとすれば、「ああ俺は今休息しているのだ」という実感だろう。こ れだって、呼吸するようにタバコを吸っていてはこの気分さえ味わえないのだ。幸いなことに、今は世間が煩い。分煙が徹底化しつつある。歩きタバコなんぞ論 外である。凶器を持って出歩いているかとのごとく見られるご時勢なのである。したがって、わざわざタバコを吸うために外出し、燐粉をまきちらしながら蛍光 灯にあつまる蛾のごとく、皆でぷかぷかやっているわけだ。ああなんかわびしいのう、妻よ、とか、かあちゃん、腹減ったよ、とか、電気が途絶えてしまって暗 闇で「どなどなどおなあどおなああ」とおもわず歌ってしまう侘しさなのである。ああ、はかなきや、この世也。
結局のところ、薬物中毒なのである。脳がきっちり快楽として学習してしまい、報酬経路ができてしまっているのだ。うそだと思うのなら、きちんと調べてみるといい。これ、ほんとだから。
だとすれば、代替物を摂取すればそれでいいではないか、と思うのだが、これはこれでなかなかうまくいかない場合が多い。
「煙草を吸う」という動作、状況も快楽パターンとして認知学習されていること、また、吸うという行為、つまり吸入というのは、薬物摂取する場合には非常に有効的かつ効果的な投与方法だからである。
早い話、パッチ(経皮膚投与)、ガム(経粘膜)よりも吸入したほうが、薬物の吸収が圧倒的に早い。これより早いのは静脈内投与(要するに注射)く らいのものだ。(話がずれるが、ニトログリセリンの舌下錠などは粘膜?血管に吸収されてすばやく効く。投与方法だけではなく、薬物の性質や形状も本来は考 えなければならない。)
薬物中毒治療の基本、その一。中毒している薬物を摂取しないこと。これにつきる。John Lennon の歌に”Cold Turkey”という曲がある。これは食い物がまずいことでは有名な英国で、とりわけまずいといわれている『冷たい七面鳥』のあまりのまずさを嘆いたキリ スト教徒の歌ではもちろんなくて、いわゆる薬切れのことである。荒療治ではあるが、このコールド・ターキーをやるのが一番である。マイルス・デイヴィス は、馬小屋にこもってヘロインを止めたそうだ。
薬物中毒治療の基本、その二。中毒化している薬物を別の形態(タバコではなくガムにするとか)で投与、または似たような物質を投与して脳をだまくらかす。麻薬中毒患者に合成麻薬類似物質を与えるみたいに。
禁煙とかたばこがどうのとかではなくて、薬物中毒だと認識すれば、結構これはすさまじい行為だと思うではないか。
などと書いているうちに猛烈にニコチンが切れてきた。ああ、もうこのまま、口から肺に管を入れ、脊髄に滅菌ホースでも突っ込み、生理食塩水かエ ヴィアンかなにかで、ばしばしじゃぶじゃぶ肺や脳を洗い流して、残留ニコチンも脳内レセプターもなにもかもきれいさっぱり洗い流してもらいたい。それとも キース・リチャードみたいに透析して全身の血を入れ替えるか?あの話は冗談らしいが。
おそらく残留ニコチンと、タバコを吸うという行為の残留記憶が消え去ったときに俺はたぶんどこかへ(どこへ)解放されるのだ。ああ、I shall be released.

そもそも政府公認で売られている麻薬なんてものは、きゃつらに都合がいいものなのである。ダウナー系だとみんなハッピーかもしれないが、国民は金 を稼ぐとか競争するとかそういうアッパーな努力をしない、それは国家としてとても困る。故に禁止。かといってあまりにも元気が出すぎるやつは、精神、肉体 への影響が大きすぎて、しゃれにならない。故に禁止。残るは、アルコールやニコチンといったじわじわと体も心も殺していく麻薬(ハードドラッグ)が残るわ けだ。ある程度以上まで進むとすでに意思によって制御できない状態にまで達してしまう。静かなる自殺と呼ばれる由縁である。ひどい話だ、まったく。
治療用薬剤を悪用して中毒になっているのと違い、政府公認で売られている麻薬であることが問題の論点である。はは、論点だって。まあ、どっちも似たようなものであるが。
いまでこそ、パッケージにやんわりと警告がかかれているが、外国並みに管をつながれてベッドに縛り付けられたりしてる写真だとか、癌の切除標本、はたまた髑髏マークをつけたり、ましてや放射能マークをつけたりはしない。
「いちおうね、世知辛い世の中だし、お上が煩いんですわ。なんでやんわりと書いておきましたけど、ほんまのことなんていわせしまへんのや。よろしゅうおば。ほなさいなら」といわんばかりの警告文。ああ、しゃらくさい。
もっと早く教えてくれよ。そうすりゃこんなもん手ださなかったのに、と思う祭りの後。