もはやno plotized | 禁煙猿

もはやno plotized

 『人間らしい生き方』をするために、俺は『常にドープでにこにこデイリーライフ』と『ドープは最小限(もしくはノードープ)で耐え忍ぶスレイヴライフ』を使い分けることにしたのである。片方により過ぎるのはよろしくない。中道、中庸たらんですよ。
 エレクトリック・バナナをつかんでくれ。プラスティック眼球めがけてそれを誇示してくれ。ううたまらん。いいじゃないか。ベイビー・スイート・デコーデッド・マンゴーはそろそろ熟れたか?
 そう、ドープである。人は生きていくために、何がしかのもの——それが栄養素であったり、水分であったり、ヴィタミンであったり、はたまた文字や、映像、宗教、アヘンだったりするのであるが——を必要としている。
 人間はか弱い。あまりか弱くない輩もいるが、基本的はか弱い。と思う。とはいえ、実は結構しぶといもんである。それに死ぬのも楽じゃない。生きていくのはもっと大変だ。生きていくためには、ものが多すぎてもいけないし、なにもなければそれも苦しい。しなさすぎも、しすぎもいけない。若人よ、中庸たれ、である。
 なぜかように哲学的なことをふと思ったのかといえば、私は弱いからである。「自分の弱さばかりが目に付く」のである。イチロースズキがいえば飛びっきりピッカピッカなフレーズもニコチン・ジャンキーズがいえばちっともかっこよくないのがつぼである。
何が弱いか、そう、ニコチンジャンキーのニコチン切れがやってきたのである。
 たとえば、このなにやら妙に落ち着かない様相を、傍目には気づかせないように、外面ソフトで生きていけば、そのうにょうにょ感は内に向く。Go to inner universe.果て無き脳の片隅までぶよんぶよんとこの想念を追いやっても、肉体というけだし弱者は悲鳴を上げる。「スレイヴライフ」を実感するのは、まさにこのときだ。ニコチン・ジャンキーズでなくとも、この感覚は誰だって分かるはずである。腹が減ったとき、なんだか切なくなってしまったとき。君だってそういうことがあるだろう。そういう時どうする?
 そのときに、社会的に容認されていること/ものでなんとか生き延びていけるかどうかが、人を悪へいざなうか、善として至れるかを左右するのである。
 脳は生きていきたいのである。常に自分が快を感じている状態にいたいのである。それが倫理的な意匠か否か、そんなもんじゃなかろうか。快というのは人によってさまざまであるから、人によっては何でこんなわずらわしい状況を我慢しているのだろうか?といぶかるような場合もあるが、それはそれ。いろいろとよんどころない事情があるにせよ、その状況にならざるを得ないのだし、極端に言えばその状態を望んでいるのかもしれぬ。例えば、愚痴っぽい人間がいたとする。何でもかんでも文句を言う。周りにとってはとんでもなく煩わしい。もしかしたら、本人もわずらわしいと感じているのかもしれない。とはいえ、ほんとうは、その文句を言う状況がすきなのだよ。かの人は。
 もしくはこうもいえる。同じものを見ていても見えているものが違うのかもしれない。たぶんそっちが本命じゃないだろうか。「こんだけもってれば余裕じゃん」と思うか「もうこんだけしかないじゃないか」と思うのは、天と地の差であることよ。
 「でもそんなことあるわけないじゃないか、つらいから愚痴るんだ」というのが普通の感覚だろうが、脳内ドープ理論では違うのである。つらい—愚痴る—愚痴を言って本人は快楽を得る—でも周りには不愉快。そう、本人はたぶんそういう状態が快なのだ。そういったネガティブ・イオンをあらかじめまとわないようにする生き方と、ネガティブ・イオンを発してしまう生き方、生き方には二通りあるかもしれない。要はどちらを選ぶかだと思う。不思議なもので、ネガティブ・イオンをあえて好む人もいるのである。インターネットをみればいい。ネガッチーがうようよいるじゃないか。寒気さえ感じるほどの無感情と悪意、悪意とすら認識していない場合すらある。品がない。性質が悪い。すでにネガティブ・イオンに浸かっている。それが体液となっている。それが空気なのだ。人間は何でも慣れていく。慣れるというのは、つねにセンサーを開ききった状態では疲弊疲労してしまうために、人間が生きやすくする術である。いい慣れ、悪い慣れ。結局感受性の問題か?