ビジネスに生かす東洋哲学 -60ページ目

人間禅道場の紹介①

私が最初に坐禅の仕方をおそわり、のちに白田(はくた)劫石(ごっせき)老師に入門した、択木(たくぼく)道場は、大正4年に建築された大変由緒ある道場で、初代の老師(ろうし:禅会の指導者)は、両忘庵(りょうぼうあん)釈宗活(しゃくそうかつ)老師という臨済(りんざい)禅の世界では、有名な禅僧でした。




釈宗活(しゃくそうかつ)老師は、明治時代に鎌倉の円覚寺の管長をされて、夏目漱石も坐禅の指導を受けた釈宗演(しゃくそうえん)老師という老師の一番弟子です。

釈宗活老師は、禅の修行がある段階に達して、「師家(しけ)」として他人を指導できる資格(印可:いんか)を釈宗演老師からいただいておりますから、そのまま、円覚寺に残っていれば、将来、円覚寺の管長になられたかもしれません。




しかし、明治時代は、文学者の夏目漱石が、東京からわざわざ鎌倉まで坐禅をしに通ったように、あるいは、日露戦争で大活躍した乃木(のぎ)大将も、南天棒(なんてんぼう)老師という当時有名な禅僧に熱心に参禅したように、居士(こじ:僧侶ではない一般人)の間で、仕事の傍ら、本格的な禅の修行をしたいという気持ちが大変高まっておりました。




そこで、東京で熱心に坐禅をしていた方々が、蒸気機関車しかない時代に、別な仕事を持ちながら、東京から鎌倉まで坐禅に通うのは大変なこともあって、東京に居士(こじ)のための禅会を作りたいと円覚寺の釈宗演(しゃくそうえん)老師に相談されました。


それを受けて、釈宗演老師の一番弟子であった釈宗活老師が自ら希望されて、明治の終わりころに鎌倉円覚寺を出て、東京で、一般社会人や学生のための坐禅会を始めたのでした。




その坐禅会は、釈宗活(しゃくそうかつ)老師の両忘庵(りょうぼうあん)という庵号から「両忘禅協会」と命名されました。最初は、日暮里近辺の貸家を借りたりして坐禅会を開いていたそうですが、次第に会員が増えてきて、専用の禅道場が必要になりました。




大正4年に、田中大綱(たいこう)さんというお金持ちのお弟子さんが、日暮里駅の谷中墓地側に釈宗活老師の主宰する居士禅会(両忘禅協会)のために、専用の禅道場を建築して寄付され、それが、「択木(たくぼく)道場」と名付けられた次第です。




私が、初めて、択木道場に行ったときには、大正4年の建物がそのまま残っており、何とも古色蒼然とした雰囲気があり、まずは、その建物に入っただけで、何ともいえず心が落ち着く気持ちがしました。

(ちなみに、択木道場は、平成6年に老朽化により建て直されており、今は、2代目のきれいな建物になっています)




釈宗活(しゃくそうかつ)老師のお弟子さんとしては、昭和21年から26年にかけて、妙心寺と大徳寺の管長を歴任され、裏千家の前家元である千玄室氏の禅の師でもあった後藤瑞巌(ずいがん)老師が有名です。後藤瑞巌(ずいがん)老師は、僧侶でしたが、東京大学をでた秀才です。




両忘禅協会は、居士禅の団体でしたから、釈宗活(しゃくそうかつ)老師以外の師家(しけ:禅会の指導者で「老師」とよぶ)は、出家していない居士(こじ)でした。


その中でも、居士の一番弟子が、立田英山(たつた えいざん)老師です。立田英山老師は、東大の学生時代に釈宗活老師に弟子入りし、釈宗活老師を支えて両忘禅協会を発展させた方です。中央大学の一般教養課程で生物学を教える科学者でもありました。




昭和24年に両忘禅協会は発展的に解散し、立田英山老師を初代の指導者として人間禅道場ができました。性別や社会的立場を超えて、誰にでも開かれた禅道場を作ろうという理想の元に「人間禅」という、あまり仏教的ではない新しい感覚の名前を付けられたそうです。



<余談>

夏目漱石の『門』という小説に主人公が禅寺で坐禅の修行を体験する話がでてきます。これは、夏目漱石の実際の体験談に基づいています。

『門』のなかで、主人公を指導する禅僧が、当時の円覚寺の管長であった釈宗演(しゃくそうえん)老師です。


また、主人公の身の回りの世話をしてくれたお坊さんとして「宜道(ぎどう)さん」という若い僧侶が出てきますが、これのモデルが、釈宗活(しゃくそうかつ)老師です。


夏目漱石は、釈宗活老師を尊敬されていたらしく、釈宗活老師が東京に出てこられてからも、親交があったそうです。


夏目漱石が亡くなったのは、大正5年であり、択木(たくぼく)道場は大正4年に建築され、釈宗活老師はそこに住んでおられましたから、もしかしたら、夏目漱石も択木道場に一度くらいは遊びに来たかもしれませんね。




                            (続く)























私の最初の坐禅体験について③

初めていった禅堂で、初対面の大人から、いきなり大声で怒鳴られたら、しかも、その理由が「坐禅中にもじもじした」ことだけですから、普通は、腹を立てて2度と行かないでしょう。

しかし、私には、怒鳴られた体験が、とても新鮮でよかったのです。



体育会など運動部に入っていない私にとっては、大学に入って、初めて、他人から真剣に本気で怒鳴られた経験でした。

それも、40歳くらいの初対面の大人が、20歳そこそこの学生に対して、坐禅中に、もじもじしただけで、禅堂が揺れたかと思うような大声で怒鳴るとは、これは、ただ事ではないと感じました。



ベテランの人たちが、一見、静かに気持ちよく坐禅しているように見える中で、なにか、とてつもなく真剣なものがあるということに気が付きました。

つまり、私には何かはわからないけれども、坐禅によって、何かの「真理」を真剣に求めているらしいということが、はっきりと理解できました。


いわゆる「求道心(ぐどうしん)」が、静かな禅堂の中にみなぎっていることに気が付いたのです。



ちなみに、後でわかったのですが、直日(じつじつ)の方は、普段は、大変温厚な方で、初心者を怒鳴るようなこと決してしない方でした。

その日も、坐禅会が終わった後で、何事もなかったかのように、

「笠倉君、来週も、ぜひ来てくださいね。」

とにっこり笑って、話しかけてくれました。



その笑顔も、良かったですね。

つい20分くらい前に大声で怒鳴ったことが、まるでなかったかのような、さわやかな笑顔でした。その笑顔をみて、私を怒鳴ったことは、少しの悪意もなく、ただ、私を励ます意味だったのだと、すぐに理解できました。



それにしても、温厚な人が、なぜ、あの時、私のことをあれほどの勢いで怒鳴ったのか、今でも、不思議な気がします。


長年、坐禅をやっていると、坐禅中は、アルファ波がたくさん出て、平安な気持ちになりますから、日常生活の中でいやなことがあっても、坐禅会の間は、それを忘れて坐禅をできます。

それに、誰もが初心者の時に足が痛んで苦しんだ経験を持っていますから、ベテランの人は、初心者の足が痛むことは、誰でも知っています。本来は、その程度のことで、腹を立てることはありません。



また、初心者に注意するとしたら、坐禅中は静かですから、普通の声でいえば、よく相手に聞こえます。普通の声で、

「坐禅中は、動かないように。どうしても足が痛かったら、静かに合掌して、しばらく足を崩して、しびれをとってから、また坐禅しなさい。」

と指示すれば、それで済むわけです。


のちに、私が早稲田大学に学生向けの坐禅会を作って、直日(じきじつ)をしていた時は、いつも、そのようにしていました。



いきなり初対面の学生を怒鳴るというのは、人間禅道場では、異例な対応でした。

禅堂によっては、最初から怒鳴りまくって、教育するところもあるようですが、人間禅は、ベテランの社会人会員が多いこともあって、初めて坐禅会に来た人を怒鳴るようなことは、普通はしません。



怒鳴るとしたら、むしろ、それなりの経験者が坐禅中に寝ているとか、明らかに気が散って集中していないようなときです。そういう人に対しては、禅堂でいくら怒鳴っても、あくまでも励ます意味であることをお互いに知っていますから、問題ありません。


しかし、初心者の場合は、坐禅のことを何も知らないわけですから、うっかりするととんでもない誤解を与えて、二度と坐禅会に来なくなるかもしれません。

ご縁があって、坐禅会に来ていただいた人をそういう形で、追い返すようなことは、仏道の上から見ても、不遜な行為です。



しかし、あの一喝(いっかつ)によって、私の気持ちに火が付いたことは確かです。

一見静かな禅の世界に、どのような秘密が隠されているのか、何をそこまで真剣に求めているのか、自分も知りたくなったのです。それで、毎週火曜日の坐禅会に通うようになりました。


あの時、本来温厚な直日(じきじつ)を大声で怒鳴らせたのは、私を坐禅に向かわせるための「天の声」だったのかもしれません。


                        (この項終わり)










私の最初の坐禅体験について②

さて、今から28年前の1982年8月下旬の火曜日の夜に、私は、東京は日暮里駅のそばにある、択木(たくぼく)道場の禅堂に入って、10数名のベテラン会員に交じって、生まれて初めての坐禅を組んだのでした。

後でわかったのですが、その時の坐禅会は、私以外は、ほとんどの方が数年から10年以上の参禅経験を持っており、初心者は、私だけでした。




坐禅の場合、複数の方、特に10名以上の方が集まって、真面目に坐禅に取り組むと、そこに目に見えない「フィールド(場)」ができるように思います。特にベテラン方が多いと、そういう感じがよくします。ベテランの方が多い禅堂は、坐禅中に独特の雰囲気が漂うのです。静かな中にある種の真剣さがあり、緊張感の中でも、なんともいえず心が落ち着く雰囲気です。




人間禅道場の例会の場合、1回の坐禅時間は、45分が基準です。時計代わりに長いお線香を立てて、時間を計ります。

ほのかなお線香の香りがする中、10数人の人が、択木道場の36畳の大きな禅堂で、物音ひとつせずに静かに坐禅をしています。




まわりのベテランの皆さんが、気持ちよく坐禅をされていたからでしょうか、私も、最初の15分か、20分くらいは、とても、よい気持ちで坐ることができました。

どこまで、坐禅になっていたかは、別として、本人は、まわりの雰囲気の中にとけこむことができた感じがして、何ともいえず、心が落ち着きました。

私の場合、それだけで、坐禅が好きになったといえます。




ところが、30分もたつと、足がどうしようもなくしびれてきて、特に膝(ひざ)や腿(もの)のあたりがひどく痛み出しました。これには、まいりました。


最初の45分間は、それでも、何とか我慢したのですが、5分間の休憩をはさんで、2回目の45分間の坐禅に入ったときは、30分を過ぎたあたりから、猛烈に足が痛くなって、途中で逃げ出したくなりました。しかし、そっと周りを見まわしてみると、私以外のベテランの方は、静かに気持ちよさそうに、きちんとした姿勢で坐禅をしています。




本当は、一定の作法にのっとれば、途中退出してもよいのですが、初めて禅道場に来たばかりでしたので、そのあたりの作法までは、教わっていませんでした。

なんとか、我慢しようと思うのですが、足の痛みに冷や汗が出てくるほどです。

しかたがないので、坐禅の姿勢のまま、体を左右にそっとひねったり、前後のそっとゆすってみたりして、何とか、痛みを和らげようと必死でした。


ところが、そういうちょこまかした動きは、禅堂の中では、大変目立ちます。

直日(じきじつ)という責任者の方が、私の落ち着きのなさをみつけ、突然、禅堂全体が揺れたかと思うような大声で


「動くな――――!」


と怒鳴りました。


坐禅中は、「半眼(はんがん)」といって、半分目を閉じて、しかし、薄目をあけて、前方1メートルくらいの畳をぼんやり見ています。

そういう状態では、周囲の状況は見えません。

しかし、直日(じきじつ)の方は、雰囲気でわかったのでしょう。

私がもじもじしているのをみて、すさまじい迫力で怒鳴りました。




私は、突然怒鳴られて、仰天(ぎょうてん)し、坐禅のかっこのまま、30センチも飛び上がったかと錯覚するほどでした。

もじもじしていた本人ですから、直日(じきじつ)が私を怒鳴ったことは、瞬間的にわかりました。

それからは、まったく動くことができません。

足の激痛に耐えて、必死に45分間が過ぎるまで、ひたすら我慢していました。


そうなると、坐禅の心境ではなく、ただただ、早く終わってほしいと祈るばかりです。



やがて、「チーン」と印金(いんきん:仏壇にあるおリンのこと)のおとがし、拍子木(ひょうしぎ)の音が2回して、やっと坐禅の時間が終わりました。終わったときに、姿勢を崩したときは、本当に救われた気持ちがしました。



                           (続く)


















私の最初の坐禅体験について①

私が、初めて、禅道場にいったのは、早稲田大学3年生の8月でした。

大学2年生の終わりころから、抑うつ状態(軽いうつ病)になり、3年生の4月から「自主休学」と称して、科目登録だけして大学には行かず、家でゴロゴロしたり、気が向くと映画館や図書館にいったりと、半分、引きこもりのような生活をしていました。


当時(1982年ごろ)は、今とは、うつ病の診断基準が異なっており、また、今ほど、よい「抗うつ薬」も開発されていませんから、医者にいっても、カウンセラーに相談しても、「君はノイローゼだから、あまり気にしない方がいい。そのうち治るよ。」といわれるだけで、薬は出してもらえません。


しかし、本人は、ひどい「自己嫌悪」「自己否定感情」に苦しんでおり、何事にも意欲がわかず、時に「自殺願望」まで出てきましたから、今から考えれば、立派な「うつ病」だったような気がします。


しかし、薬も何も、もらえませんから、ただ、うつうつとしながら、大学3年の4月から8月まで、まったく大学に行かず、ひたすら、ぶらぶらしておりました。しかし、そのような生活をしていると、結果的に、うつ病治療にもっとも大事な休養をとれたことになり、8月には、かなり気分が好転してきました。


大学は、夏休みでしたし、1年間は、自主休学すると決めていたので、この際、普段できないことをやってみようかと思い、ごく軽い気持ちで、東京の山手線の日暮里駅そばにある人間禅の択木(たくぼく)道場の坐禅会に参加してみたのです。


当時の択木道場は、毎週火曜日の午後6時半から8時まで、1時間半の坐禅会が定例会として実施されていました。日暮里駅のそばに看板が出ており、出身高校(開成高校)が近くにあったことから、高校時代から、そこに坐禅会があることは知っていました。

しかし、大学3年生の8月までは、坐禅に特に関心はなく、行く気もなかったのですが、抑うつ状態が完全に治ったわけではないにしても、少し良くなってきて、何か精神安定によいことやってみたくなった時に、ふと、日暮里駅そばの坐禅会の看板を思い出したのでした。


インターネットなどない時代ですから、電話で問い合わせると、希望者は、100円くらいの安い会費で誰でも参加できるということでしたので、ごく軽い気持ちで、択木(たくぼく)道場を訪ねたのでした。


初心者なので、少し早めに午後6時ころに択木道場に行くと、すでに、ベテラン会員の方が何人か来られており、坐禅会の準備をされていました。

私以外の参加者を見ると、大体30代から50代くらいの社会人が多く、20代と思われる人は、その時は、私しかおりません。

それを見て、ちょっと不安になったのですが、事前に電話をしていたこともあり、初心者に坐禅の仕方を教えてくれる係りの女性の方が、控室で親切に対応してくれました。


何しろ、私自身は、坐禅をしたこともなければ、坐禅の本も読んだこともありません。見学気分のごく軽い気持ちで来ただけでしたが、指導係りの方が30分くらいかけて、分かりやすく坐禅の組み方や道場の基本的なマナーを教えてくれました。


択木道場は、大正4年に初代の建物が建てられたほど、由緒ある坐禅道場ですが、居士(こじ)という一般社会人のための禅道場でしたので、禅堂は全体が畳の部屋です。たしか、私が初めて行った時の古い建物の禅堂は、36畳の広さであったと思います。

(平成6年に建て直されて、今は、70畳くらいあります)


人間禅道場は、本格的な臨済宗系の坐禅を修行することを目的にした禅道場ですから、結跏趺坐(けっかふざ)か、半跏趺坐(はんかふざ)という、坐禅本来の坐り方を教わりました。坐禅の坐り方は、あぐらのような恰好でありながら、お尻の下に座布団をいれてお尻を少し高くして、足を反対の足の腿(もも)に上げて、背筋をぴんと伸ばすというものです。


私も、当時は、あまり太っていなかったこともあり、また、若くて体も今ほどは固くなかったので、とりあえず、言われた通りやってみたら、坐禅らしいかっこをすることができました。

そうしたら、指導係の方が、「上手ですね。これなら、すぐに一緒に坐禅できるから、禅堂にいきましょう」といって、ベテランの方々に交じって初めての坐禅体験が始まりました。

                              (続く)

『論語』の「天」と禅について②



「仏性(ぶっしょう)」は、宇宙の一部分である私達の心の中にも当然にありますが、


「山川草木(さんせんそうもく)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」

<山も川も、草木も、すべてが仏の姿である>


というお釈迦様の言葉が表すように、あらゆる自然の根底にあるものだと思います。



ただ、「仏性(ぶっしょう)」は、人知を超える大きな面をもっていますから、人間の言葉で簡単に説明することはできません。


民族や信ずる思想や宗教によって、とらえ方も異なれば、名前も、説明方法も異なるわけです。人間にとっては、簡単に全体像をとらえきれない大きな存在であるといえるでしょう。

したがって、どれか一つの説明が正しいということではなく、どれもが、ある面では正しいのではないかと思います。




実は、同じものをキリスト教では「全知全能のヤハウェの神」ととらえ、
お釈迦様は「仏性(ぶっしょう)」ととらえ、
孔子は「天」ととらえたのだと私は考えています。
富士山に登る道はいくつもあっても、最終的には、同じ頂上に登り着くという考え方です。



これは、西洋の一神教的な発想には、なじまないかもしれませんが、
日本人で禅をある程度やった人には、自然な感じ方ではないでしょうか。




さらに言えば、ユングの「集合的無意識」(普遍的無意識)も、現代の世界的な科学哲学者であるアーヴィン・ラズロ博士が唱える「アカシック・フィールド」も、実は「仏性(ぶっしょう)」のことを異なる角度から説明しているものであると、私は考えています。



「仏性(ぶっしょう)」のことを言葉で説明しようとすると、様々な表現がありえますが、禅の場合は、これを坐禅という一種の瞑想法によって、直観的に把握していくものです。




禅では、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といいますが、いくら言葉で説明しても、「仏性(ぶっしょう)」のことは、言葉だけでは正確に伝えきれないという意味です。

言葉による説明は「あれが月だよ」と月を指し示す指先であり、

その指の先の空に本当の月があるというのが、禅の発想法です。


言葉の先にある「仏性(ぶっしょう)」を把握するために、坐禅の修行法があるわけです。



しかし、坐禅をしなくても、山や海辺で大自然の荘厳な風景に深く感動するとき、

実は、すでに誰もが「仏性(ぶっしょう)」の世界に、無意識のうちに触れています。




そのようなときには、日常生活のストレスも忘れて、心が洗われるような感じがするでしょう。そこまで深い感動をしなくても、自然の中で、心身が癒され活性化するのは、ハイキングや森林浴をするときに誰でも感じることができますね。



「仏性(ぶっしょう)」の世界に触れるということは、日常のストレスで疲れた心身を癒して、心身を活性化してくれるものです。




しかし、悲しいかな、私のような凡人は、休みの日に美しい自然にふれて深い感動をしても、日常生活の中に戻ると、いつの間にか日常生活に追われて、その感動を見失っていくことが多いわけです。



その点、毎日、短時間でも坐禅(イス禅を含む)をしていると、家に居ながら、心に「仏性(ぶっしょう)」を感じることができるようになり、ストレス解消にもなり、心の平安を得て、心身の活性化につながります。




さて、次回からは、しばらく『論語』を離れて、「禅」の話をしたいと思います。



                         (この項終わり)




































『論語』の「天」と禅について①

孔子は、『論語』の中で、何度か、「天」について言及しています。


孔子にとって、最愛の弟子である顔淵(がんえん)がなくなったときに、

孔子は、悲痛な悲しみを「天が自分をほろぼす」と表現しています。




「ああ、天がわしをほろぼしたのだ、天がわたしをほろぼしたのだ」




「天(てん)予(われ)を喪(ほろ)ぼす、天(てん)予(われ)を喪(ほろ)ぼす。」



『論語』先進第十一より




また、宋の国で桓(かん)タイという人物に殺されそうになったときには、

「天が助けてくれるに違いない」といって、弟子たちを励ましたといいます。




「天が、わしにこのような徳をたまわる以上は、天は、わしを助けるに違いない。

桓タイが、いかに凶暴であろうとも、わしを害することなどけっしてできないのだ。」




「天、徳を予(われ)に生ぜり。桓タイ それ予(われ)をいかんせん。」



『論語』述而第七より




また、孔子は、「今の世に自分を本当に知るものがいないが、天こそが自分を本当に知ってくれている」といっています。




「今の世には、わしを知る人がいないことだ。(中略)

人からは知られないが、天だけは、独り、わしのことを知っている。」




「我を知るものなきか。(中略)我を知る者は、それ天か。」



『論語』憲問第十四より




孔子の時代には、「天」とは、「万物を生み出し、これを主宰する偉大な力のあるもの」と一般に信じられていました。

キリスト教の神様のように、明確な人格を持っているわけではないにしても、人智を超える力を持って、世界を生み出し支配する偉大な神様のような存在として、人々に信じられていたわけです。




しかし、孔子の「天」に対する思いは、単純な信仰を超えるものがあったと思います。

孔子は、「天」としか言い表しようのない人知を超えたあるものを深く感じ取って、心から信じていたのでしょう。

『論語』の言葉には、孔子の「天」に対する深い確信を感じます。




では、『論語』の「天」とは、いったい何でしょうか?

私は、禅でいうところの「仏性(ぶっしょう)」と、本質的に同じものであると考えています。




それでは、「仏性(ぶっしょう)」とは、何でしょうか?

臨済宗の公式HP(臨黄ネット)では、

「自分の心の奥底に存在する仏様となる可能性」という意味の説明がなされています。




もちろん、それが正しい見解だと思いますが、

「仏性(ぶっしょう)」とは、各人の心の奥底にあると同時に、個人の意識の枠を超えた存在であると私は考えています。




仏性については、比喩的に「宇宙の大生命である」と説明されることがありますが、私には、この表現が体験的にしっくりきます。



                           (続く)













































『論語』の言葉-5「己(おのれ)にしかざる者」③

最後に、人柄や人間性の面については、どうでしょうか?

人柄の面において、他人を「自分より劣っている」かどうか、判断できるでしょうか?



本来は、人柄や人間性こそ、孔子が最も重要視した大事な要素です。

また、ビジネスパースンにとっても、自分のまわりの人の力を引き出せるかどうか、人を育てることができるかどうかは、単なるスキルよりも、その人の人柄や人間性が一番のカギになると思います。




それでは、人柄や人間性を他人と比較することはできるでしょうか?

人柄や人間性を数値化することは本来無理があると思いますが、直感的には、なんとなく感じ取ることができますね。

特に、上司や部下や取引先など、立場の違う人に対する態度をはたから見ると、だれしも、なんとなく、その人の人柄を感じ取ることができます。




しかし、大事なことは、他人をどう評価するかではないと思います。

自分と他人を比べて、他人を批評するよりも、自分を反省することが大事でしょう。




「己(おのれ)に如(し)からざる者を友とするなかれ」

「自分に及ばない者と交わって、えらぶるようなことがあってはならぬ。」




という言葉は、自分で自分をいさめる言葉と理解するのがよいと私は思います。



他人の長所、優れた点を認められる素直な心を持つことが、人間として大事なことだと思います。

まわりの人をみて、「自分よりも劣っている」と思う人は、どこかで謙虚さを失っているのかもしれません。

むしろ、まわりの人に、自分よりも優れた点を見ることができる素直な心の持ち主の方が、人間として成長していくのだろうと思います。




逆に、人によっては、他人と比べて自分の短所ばかりが気になり、自信をなくし、劣等感に苦しんだり、うつ的な気分になる場合もあるかもしれません。

しかし、自分よりも、どこか優れた人がまわりにいるということは、その人から良い影響を受けるチャンスをいただけるわけですから、それを幸運ととらえて感謝しましょう。




人間には、だれしも、長所もあれば、欠点もあります。
また、人はたいてい、他人の欠点には、すぐに気が付くものですが、他人の長所については、それを認めたくない感情が働くことがよくあります。

もし、他人の長所を認めることができるならば、それは、自分が素直で謙虚な気持ちになっているしるしだと、心の中で自分をほめてあげましょう。

他人の長所を素直に認めることができる人は、それだけでも素晴らしい人だと、私は思います。




さらに、他人の長所をマネできる人、そこから学べる人は、もっと素晴らしいですね。
とはいえ、人間には、個性がありますから、マネしたくても、他人の長所をマネできないこともあるでしょう。

マラソンランナーにはマラソンランナーの長所があり、相撲取りには相撲取りの長所があるのですから、他人の長所をすべてマネすることはできません。




しかし、他人の長所を認めるという素直で謙虚な気持ちは、人間として大事にしたいものです。

他人の長所をたくさん認めることができる人は、心の広い幸せな人だと思います。



                         (この項終わり)




























『論語』の言葉-5「己(おのれ)にしかざる者」②

能力について言えば、自分を過信しないことが大事ではないでしょうか。


ある人を見て「自分と同じくらいの能力」と思う時は、実は、相手の方が優れているというのが、普通のようです。

自分よりも明らかに劣っていたはずの部下や後輩が、いつの間にか、自分を追い越しているということも、世間にはよくあります。




しかし、それは、むしろ喜ぶべきことでしょう。

特に上司は、部下が自分よりも有能さを発揮した時は、素直に喜び、ほめてあげる度量を持ちたいものです。自分よりも、実務的に有能な部下を育てることが上司の大事な仕事だからです。




松下幸之助さんは、松下電器のある事業部長が

「うちの事業部は新設の事業部で、他の事業部から、仕事ができない人ばかり集められて、ちっともうまくいきません。」

と報告した時に、激怒されたそうです。




「松下電器に、ダメな人間はおらん。そういう人間は採用していない。

仮に、仕事ができない部下がいても、そういう人を導いて、本来の力を発揮できるようにすることが事業部長の仕事やないか。部下の愚痴をいうようでは、事業部長失格や。」

という趣旨で、厳しくお叱りになられたということです。




小学校中退で、学歴も財産もなく、体も必ずしも強くなかった松下幸之助さんが、3畳一間の町工場から出発して、一代で世界有数の家電メーカーを作ることができたのは、自分よりも優れた能力を持つ部下をたくさん持つことができたからでしょう。

松下幸之助さんには、自分よりも有能な部下を使いこなす経営力があったということだと思います。




私達のような普通のビジネスパースンが、

「己(おのれ)に如(し)からざる者を友とするなかれ」

という言葉から教訓を得るとしたら、

部下の能力を育てて、自分よりも有能な人材になるように指導することが大事であるという意味に解釈するのがよいと思います。




部下や後輩が本来持っている能力をうまく引き出せし、うまく育てることができれば、自然と自分よりも劣った人が少なくなり、優れた人がまわりに多くいることになります。

そういう人こそが、優れた上司、幸せな上司というべきでしょう。




もちろん、部下の立場にある人も、上司のあらさがしばかりしてはいけません。

人間だれしも、短所や欠点があります。

しかし、短所や欠点は、長所の裏返しでもあるのが普通です。

ある人の特徴が、ある場面では、長所となり、ある場面では短所となるのではないでしょうか。




それを上司の短所ばかり見ていると、肝心の長所が見えなくなります。

そうなると、はたから見ると、上司の短所だけ似て、長所を受け継がない部下に育ってしまうことがあります。

逆に上司の長所を見て、その部分を素直に尊敬できる人は、上司の長所を受け継いで、ビジネスパースンとして、どんどん成長していくように思います。




また、会社をチームとして考えれば、お互いに欠点を補いあうように機能するのが強いチームといえるでしょう。

松下幸之助さんは、常々、

「人間は誰しも欠点があるのだから、上司は部下に自分の欠点を見せて、それを補ってもらうようにせよ。部下は、上司の欠点があれば、それを補うように仕事をせよ。」

と指導されたそうです。


なかなか難しいことではありますが、そういう雰囲気の会社、あるいは、部や課は、働きやすく強いチームになることでしょう。




                            (続く)






























『論語』の言葉-5「己(おのれ)にしかざる者」①

「人と接するには、忠信を失わないようにし、自分に及ばない者と交わって、えらぶるようなことがあってはならぬ。」




「忠信を主とし、己(おのれ)に如(し)からざる者を友とするなかれ。」



『論語』学而第一より




「忠信を主とし」とは、ようするに真心をもって人と付き合いなさいということで、人に親切にして、人の信頼を裏切らないようにしなさいということです。

これは、誰もが納得しやすいと思います。



問題は、「己(おのれ)に如(し)からざる者を友とするなかれ」の部分でしょう。

自分よりも劣ったものと付き合って、偉ぶって自己満足におちいってはいけないという意味です。


しかし、何をもって他人を「自分よりも劣っている」と判断したらよいのでしょうか?




地位や財産でしょうか?

あるいは、能力でしょうか?

それとも、人柄(人間性)でしょうか?




地位や財産は、分かりやすいですね。外から見て判断しやすい基準です。

しかし、自分よりも地位や財産の低い人を友とするなとは、孔子らしくない言葉です。


もし、そう解釈するとしたら、地位や財産の高い人に対しての注意と読むべきでしょう。



地位が高い人や財産のある人には、まわりの人が気をつかいます。

中には、心にもないお世辞をいって、利用しようとする人もあるかもしれません。

自分に媚びてくるような人とばかり付き合うと、本当のことが見えなくなりますよ、といういさめでしょう。




身分制度が厳しかった時代においては、君主に媚びる人はたくさんいたでしょう。

名君といわれる人は、自分に厳しいことを言ってくれる家臣を大事にしました。


現代においては、会社の社長はもちろん、役員や部長など上級管理職にある人は、会社や自分の部課の状況について厳しい意見を言ってくれる人を大事にすることも、良い経営をするうえで、大事であると思います。







では、能力について、自分よりも劣っている人については、どうでしょうか?

そういう人を友にしてはいけないのでしょうか?




能力については、本来は、他人と自分を比較することが難しいと思います。

営業職のように、結果が数字で出る職種の場合は、まだ比較しやすいでしょう。

しかし、これも、同じ社内での比較であり、同業他社の営業マンとは簡単に比べられません。商品力や背負っている「看板」(会社のブランド力)が違うからです。




異業種の場合は、さらに比較は難しくなります。個人を相手にするのか、法人を相手にするのかによって、営業手法が異なるでしょうから、単純に数字だけでは比較できません。




まして、職種が異なったら、どうでしょうか?

営業職の人と経理部の人の能力を比べることは、ほとんど無理でしょう。

100メートルの金メダリストとマラソンの金メダリストとどちらが、足が速いのかと比べるようなものです。




さらに言えば、経理や総務など間接部門の場合は、同じ職種内でも、能力の差を正確に測ることは難しいと私は思います。仕事の成果を簡単に数値化できないからです。




また、その人が社風になじむかどうかという問題もあります。

ある会社で有能な人が、転職すると必ずしも有能でない場合もあります。

もちろん、逆に、会社を移ることで、持っていた才能が開花して見違えるほど活躍する人もいます。




 (続く)















































『論語』の言葉-4「巧言令色、すくなし仁」②

日本の芸道、たとえば、茶道にしても、古流の剣道にしても、あるいは、能楽や歌舞伎、にしても、まずは「形」から入ります。

古来から伝えられている「形」を学んで、形に合わせた言動ができるように修練します。

しかし、「形」どおりにできれば、それで修行は終わりでしょうか?



そうではないと思います。繰り返し「形」を学ぶ過程で、「形」をとおして心を練ることが最終的な目標のはずです。そうでなければ、他人を深く感動させることは難しいでしょう。何より、自分が深く感動できません。



禅の修行も同じです。

最初は、坐禅の形になれる、禅堂のルール(規則)になれるというところが出発点です。

それをまず、身につけて、形に合わせた動きができるようになると、次第に、心が落ち着き、形に込められた深い意味に気が付き、精神が練られていきます。



「形は心を規定する」いう言葉がありますが、日本の伝統文化は、形をうまく利用しているといえるでしょう。「形」を整えることで、心を整え、さらには、人格の向上を目指すわけです。



しかし、「形」がきれいにできるようになると、それで満足できる側面があることも事実です。特に、孔子が教えた「礼」の勉強は、言葉使いや外見についても、細かく指導したようですから、それが身についてくるだけでも、一見、立派な人に見えたことでしょう。周りの人からの評価も高くなるでしょう。そうなると、つい、慢心する弟子も出てきたことと思われます。



「礼」という一つのスキルをある程度身につけ、形通りの立派な言動ができるようになった段階で、自己満足に陥るわけです。自分に自信を持つことは大いにけっこうなことですが、それが、過信や自己満足に陥れば、謙虚さがなくなり、人間としての進歩向上が止まってしまいます。



うっかりすると、スキルや外見ばかりが立派で、人間的には、人を見下し冷たく思いやりのない人に退歩してしまうような弟子もいたかもしれません。

それは、孔子の教えに反することです。



孔子は、あくまでも、「君子(くんし)」という立派な人格者になることを目標に学問をし、弟子たちを指導された方です。「君子(くんし)」とは、ただ、見栄えだけが立派な人ではありません。心が謙虚で思いやりがある人でなければ、「君子(くんし)」とは言えないでしょう。



そこで、孔子は、「礼」の修行が進んだ高弟達に向かって、

「礼によって、言動や外見を磨くことも大事であるが、そればかりを考えていると肝心の心を磨くことがおろそかになる恐れがあるから、気をつけなさい。」

という意味で、


「言葉を巧みにし、外貌を飾って人を喜ばせようとすると、己の本心の徳がなくなってしまうものである。」


「巧言令色(こうげんれいしょく)、すくなし仁(じん)」


と言われたのではないか、と私は考えています。



現代に生きる私達ビジネスマンにとっても、あるいは、学生や退職後の方にとっても、

人間関係を円滑に進めるためには、当然、マナーやある程度の表現力(広い意味のプレゼンスキル)が必要です。

特に商談の際には、少し大げさなくらいに、自社商品や自分のことをアピールする必要があるでしょう。

そのこと自体は、孔子も否定はしないと思います。

「礼」の形は、時代環境によって、変わるものだからです。



江戸時代に当たり前だった「ちょんまげ」を普通のビジネスマンがしないように、あるいは、150年前には、誰もが着なかった背広とネクタイを誰もが着ているように、マナーやスキルは、時代とともに変わっていきます。



しかし、いくらスキルが大事であるからと言って、

「それにおぼれてはいけない。それだけで、自己を過信して、謙虚さを失うようでは、人間として最も大事な心の徳がなくなってしまうぞ」

というご注意を孔子はしてくださっているわけです。



その意味で、孔子の言葉は、「巧言令色」そのものを否定したというより、


「巧言令色におぼれて、自分を見失うようなことがあってはならない」


という意味であると私は思います。

                           

                        (この項終わり)