ビジネスに生かす東洋哲学 -59ページ目

阿頼耶識(あらやしき)とアカシックフィールド①

仏教の深層心理学である唯識思想においては、意識の下の心の奥底に、第七識・末那識(まなしき)と第八識・阿頼耶識(あらやしき)があると説かれています。



末那識(まなしき)は、ユングのいう個人的無意識に相当し、阿頼耶識(あらやしき)は、ユングのいう普遍的無意識(集合的無意識)に相当します。


しかし、阿頼耶識(アラヤシキ)の守備範囲は、人間の無意識にとどまりません。

人間だけではなく自然界を含めたあらゆる存在を生み出すものとされています。

あらゆる存在の経験や記憶の貯蔵庫が阿頼耶(アラヤ)識であるというのが唯識の教えです。



従来、この教えは、哲学的に人間の認識の範囲が感覚と意識を中心に八識の範囲からでないことから、人間が認識しない以上、物の実在は証明できない、だから、すべての世界は、人間の認識の産物であるというように説明されてきました。(「三界唯識(さんがいゆいしき)」という思想です。)



しかし、私などは、自分の禅体験をもとに、唯識(ゆいしき)思想は、人間の深層心理の偉大さを比喩的に説明しているのだろうと思っておりました。

坐禅を一生懸命しますと、特に、「見性(けんしょう)」という最初の「悟り」体験をいたしますと、世界と自分が一つにつながっているような実感が得られます。

禅でいう「仏性(ぶっしょう)」が唯識(ゆいしき)でいう「阿頼耶識(あらやしき)」のことで、深い悟り体験をえた昔の偉大な仏教者が、自分の悟り体験を哲学的に説明するために、「阿頼耶識(あらやしき)」を考え、すべての存在の根源と説明したのだろうと推測していたわけです。



世界の存在が、すべて、人間の認識によるもので、その原因や結果が「阿頼耶識(あらやしき)」に貯蔵されているという教えは、常識的な世界観からは理解しにくい面があります。私が比喩的な説明と感じたのは、裏えせば、とても、現実の自然の姿とは思えなかったからです。その理由は、学校で習った自然科学的な世界観と全く相いれないからです。



しかし、私は、アーヴィン・ラズロ博士の著作を読んで、考えが変わりました。

ラズロ博士は、通常の方法では観測できないが、「アカシック・フィールド」略して「A-フィールド」という宇宙全体の歴史を蓄えたデータベースがあり、人間は誰でも意識せずに「A-フィールド」と情報のやり取りをしているという壮大な仮説を提唱しています。



私は、ラズロ博士の仮説を知って、自然界には、「A-フィールド」という特別な情報の貯蔵庫が実際に存在するらしいということを理解しました。

と同時に仏教やヒンドゥー教を作ったインドの人々は、深い瞑想による禅定(ぜんじょう)体験、三昧(ざんまい)の体験によって、「A-フィールド」の存在に明確に気が付いたのではないかと思います。


そして、唯識仏教では「A-フィールド」を説明するために「阿頼耶識(あらやしき)」と名付けたのではないかと考えるようになりました。

「A-フィールド」は、禅でいう「仏性(ぶっしょう)」とも、実体としては同じものであり、見方や説明の仕方が違うだけではないかと考えています。








禅仏教の深層心理学―唯識について⑦

皆さんも、イス禅を毎日10分間~20分間程度、1~3か月程度、実践していただければ、自分の心が変わってくることに誰でも気が付くことができると思います。



イス禅という瞑想法によって、宇宙全体のデータベースというべき「阿頼耶(あらや)(しき)」にアクセスできる




私は、よく「笠倉さんは、いつも、ニコニコしていますね。」といわれることがありますが、坐禅を始める前のうつ的な心境にあった学生時代は、ニコニコどころか、いつも暗い顔つきをしていました。心の中がとげとげしい感情でいっぱいでしたから、とても、ニコニコできないのです。




人をねたみ、自分を嘆き、自分はダメな人間だと自分で自分を責めて苦しんでいました。時には、楽しくて笑うこともあったと思いますが、「いつも、ニコニコしている」などといわれる人間ではありませんでした。


しかし、熱心に坐禅に取り組んで、見性(けんしょう)という最初の悟り体験をしたときに、まわりの世界の感じ方が180度変わりました。

なぜかわからないのですが、静かな喜びの感情、生きていることがありがたいという感謝の感情が心の奥底から湧いてくるのです。

外出すると、見ず知らずの街行く人々が、私にむかって微笑みかけてくれるような感じがしました。東京のどんよりした青空にかかる雲がとても美しく見え、普通の街路樹さえ美しく感じました。




当時は、なぜ、自分の感情がこれほどまでに劇的に変わったのか、その理由がわかりませんでした。しかし、根本的に心の中で、何かが変わったことは否定できない事実でした。今考えると、心の奥底にある阿頼耶(あらや)(しき)に心が開かれたからであると思います。




見性(けんしょう)体験のあと、母校に教育実習にいったら、高校時代にお世話になった先生方が、「笠倉君は人が変わったね」と驚いておられました。



自分では、何が変わったのか、うまく説明できませんでしたが、見性体験によって、宇宙と自分が深いところでつながっているという実感を持てたことが、心を落ち着かせ、明るくしてくれたのだと思います。










禅仏教の深層心理学―唯識について⑥

人間の無意識の奥深くで、宇宙全体の情報データベースにつながっているとしたら、それだけでも、素晴らしいことです。人間は、誰もが無限の智慧とそこから生まれる無限の可能性を持っているわけです。



ただ、普通は、心が濁っているため、宇宙のデータベースである阿頼耶(あらや)(しき)十分にアクセスできないのです。

そこで、無限の情報を持っている阿頼耶(あらや)(しき)にアクセスする方法が、坐禅瞑想による心の浄化です




坐禅をして心が澄んでくると、知らず知らずのうちに、阿頼耶(あらや)(しき)アクセスした状態になります。もちろん、深い無意識の世界のことですから、これが阿頼耶(あらや)(しき)だと意識できるわけではありません。




しかし、表層心理である意識や感覚の世界が明らかに変わってきます。

深いところで、宇宙と自分とがつながっていることが実感できるようになります。それが、心の救いになるのです。


大きなストレスに苦しんでいるとき、宇宙が自分を応援してくれていると思えれば、ストレスも軽くなります。ストレスも宇宙が自分に与えてくれた試練であると思えれば、ストレス状況を楽しめるようになります。そうなれば、もはやストレスは無くなるわけです。




もちろん、ストレスがなくなるというレベルまで行くことは、かなりの修行が必要ですから、誰にとっても簡単ではありません。私自身も、とても、ストレスがないというレベルには至っておりませんが、それでも、坐禅を始める前に比べると随分とストレス感が下がってきたことは事実です。




トランスパーソナル心理学の世界では、坐禅などの瞑想は、「直観による第三の認識の方法」(第一の品式は、哲学的な思考、第二の認識は科学的な実証)であるといわれます。



たしかに、坐禅など各種の瞑想法は、それによって深層心理の世界で宇宙全体のデータベースというべき「阿頼耶(あらや)(しき)」にアクセスできるという意味で、まさに第三の認識方法です。また、そもそも、人間の心がそのような構造になっていることを体験的に理解できるという意味でも、瞑想は確かに認識の方法であると思います。






禅仏教の深層心理学―唯識について⑤

阿頼耶(あらや)(しき)」は、個人の枠をこえた無意識であるという意味で、ユングの「普遍的無意識(集合的無意識)」と似ています

しかし、ユングがあくまでも、人間の心の領域として「普遍的無意識」をとらえているのに対して、唯識仏教の「阿頼耶(あらや)(しき)」は、心だけではなく、物質世界も含めて、自然界全体のすべての存在の情報をおさめたものであるととらえる点が異なります。



自然界全体の、いいかえれば、宇宙全体の情報が「阿頼耶(あらや)(しき)」に蓄えられているといえるでしょう。その点では、アーヴィン・ラズロ博士のいう「A-フィールド」と実質的に同じものであると考え



ただ、見る角度が異なるわけで、ラズロ博士のように、自然界の物理的、科学的な性質からアプローチすれば、「A-フィールド」ととらえることができ、仏教のように人間の深層心理からアプローチすれば、「阿頼耶(あらや)(しき)」ととらえることができるということでしょ

私は、「阿頼耶(あらや)(しき)」のことを「超意識」と読んでおりますが、それは、阿頼耶(あらや)(しき)枠組心と物質の枠組みを超えた存在であるという意味です。



人間は誰でも、世界全体、宇宙全体に通じる情報データベースと心の深層においてつながっているというのが、唯識思想の人間観であり、その点では禅仏教も同じであると思います。


そこに人間としての大きな救いがあるのではないでしょうか。










禅仏教の深層心理学―唯識について④

阿頼耶(あらや)(しき)は、唯識(ゆいしき)では、無覆(むぶく)無記(むき)」と言われます。無覆(むぶく)とは、まったく汚れがないという意味です。無記(むき)とは、善でも悪でもない、無色透明なものという意味です。どんな善行をしようが、悪行をしようが、人間の命の根源である阿頼耶(あらや)(しき)は、常に汚れなく、善悪に染まることもないのです。人間の命の根源が無色であるということは、過去に犯した罪が許されているという意味でもあります

人間は誰もが、阿頼耶(あらや)(しき)のレベルでは、お釈迦様のような仏の境涯にたどり着ける可能性を所有しているわけです。

しかし、仏教では、「善因善果、悪因悪果」といって、善いことをすれば善い結果がおこり、悪いことをすれば悪い結果につながるという因果の法則を大事にします。

阿頼耶(あらや)(しき)が無色透明で汚れなき存在であっても、悪い種をまき続ければ、悪い結果が引き起こされますし、善い種をまけば、善い結果が起きます

ちなみに、個人的無意識にあたる「末那(まな)(しき)」は、「有覆(うぶく)無記(むき)」といわれます。善か悪かといえば、善でも悪でもない無色なものといういみで、「無記(むき)」です。

しかし、「有覆(うぶく)」とは、汚れがついているという意味です。

末那(まな)(しき)」は、自分にこだわる無意識、我執であるという意味で、「阿頼耶(あらや)(しき)」にくらべて汚れがついていると考えるわけです。

しかし、「末那(まな)(しき)」は、悪ではありません。無記(むき)

それどころか、唯識(ゆいしき)阿頼耶(あらや)(しき)」は、「末那(まな)(しき)末那(まな)(しき)に支えられていると


我執というのは、悪く出ればエゴイズムですが、自分で自分を大切にする心は、善い面に出れば向上心につながりますので、それ自体は善でも悪でもないといえるでしょう。

禅仏教の深層心理学―唯識について③

第七識「末那(まな)(しき)」は、先天的に備わり、かつ、心の深層で働く自我意識です。唯識仏教では、無意識の中のエゴの心であるとらえています。利己心、我執というものが無意識の世界である「末那(まな)(しき)」において常に働いているわけです

自分個人の枠内で働く無意識という意味では、ユングのいう「個人的無意識」に近いものと考えてよいでしょう。

「個人的無意識」は、個人の夢や願望の根源でもありますから、一概に悪いことばかりではありません。ただ、心の浄化によってお釈迦様のような仏の境涯になることを目的とする仏教においては、自分にこだわること自体を成仏の妨げととらえるので、「末那(まな)(しき)」について否定的な見方が強調されています。

第八識「阿頼耶(あらや)(しき)」は、五識と意識、末那(まな)(しき)までの七識を生ずる根源的な心であり、自然界を含めたあらゆる存在を生み出す種子(しゅうじ)」をおさめた心です。(ちなみに「種子」を唯識仏教では、「しゅうじ」とよんで、植物の種と区別しています)

阿頼耶(あらや)(しき)は、自分で何かを考えるという働きはなく、意識や末那(まな)(しき)の働きの結果を受け取り、おさめていく蔵のような存在であり、別名「(ぞう)(しき)」とも言われます。

私たちが何か経験をすれば、その経験がすべて「種子(しゅうじ)」として「阿頼耶(あらや)(しき)」に残るのです。

その「種子(しゅうじ)」が、何かの縁に触れて現実世界に現れてきます。

それを「現行(げんぎょう)」といいますが、「現行(げんぎょう)」が起きると、それがまた、「阿頼耶(あらや)(しき)」の中に「種子(しゅうじ)」をとどめていきますが、これを「薫習(くんじゅう)」といいます。

人間が感じたこと、考えたこと、それらがすべて、阿頼耶(あらや)(しき)の中に薫習(くんじゅう)されるのです。阿頼耶(あらや)(しき)に何を薫習(くんじゅう)しているかによって、人格も変われば、その人の見える世界も変わってきます結果的にその人の人生が大きく変わります。

禅仏教の深層心理学―唯識について②

次に、第六識として「意識(いしき)があります

一般的にいう意識は、感覚、知覚、思考などによる人間の心の働き全体を意味するのに対して、唯識(ゆいしき)でいうところの「意識」は、学問的には、()(しき)」であらわされる感覚とは区別された心の働きを言います。



ちなみに、唯識思想でいう「五識」は、外界に対して受動的な感覚で、言葉を介さずに、現在の一瞬一瞬における感覚対象を認識するものです。



それに対して、唯識でいう「意識」は、過去・現在・未来にわたるあらゆる事物を対象にすることができ、言葉を介して抽象的な概念も対象にできること、などが「五識」とは異なります。また、感覚と区別されているという点で、一般的な用語である意識とは、微妙に異なるわけです。

とはいえ、私たちのような普通の生活人にとっては、用語の厳密な区別はあまり意味がありません。

唯識でいう第六識「意識」は、一般的にいう意識と、ほとんど同じものであると考えてよいでしょう。



次に、第六識「意識」の下に、第七識「末那(まな)(しき)」と第八識「阿頼耶(あらや)(しき)」があります


「五識」の感覚と第六識「意識」が誰でも認識できる表層心理であるのに対して、第七識「末那(まな)(しき)」と第八識「阿頼耶(あらや)(しき)」は、深層心理にあたります。

そのため、普通はその存在を認識できません。


唯識(ゆいしき)思想を作り上げたインドの仏教者たちは、坐禅やヨーガによる深い禅定(ぜんじょう)体験をすることによって、人間の深層心理に気が付きました。そして、現代に生きる私たちも、坐禅や各種の瞑想法によって、深層心理に気が付くことができます。



あるいは、これが深層心理だと気が付かなくても、坐禅によって、深層心理、あるいは潜在意識が浄化されて活性化しますので、心の活力が自然に上がることになります。

そうなると、誰でも、坐禅をとおして自分の中で何かが変わりつつあることに気が付きます。


インドの仏教者は、徹底的に坐禅やヨーガをすることによって、1500年以上も前に、人間の深層心理の構造に気が付いたのです。







禅仏教の深層心理学―唯識について①

禅仏教は、現実的で実践を重んじる中国で発展し、日本で磨きあがられたものですから、理論的な説明があまりありません。

「禅問答のようだ」といえば、「(部外者には)訳が分からない」という意味になっているほどです。



しかし、仏教が生まれたインドは、大変、哲学的、思索的な傾向がつよい国です。

そのため、心のあり様について、たくさんの仏教者が何百年にわたって哲学的な考察を重ねてきました。



お釈迦様が紀元前4世紀にお亡くなりになられてから、数百年して、インドに大乗仏教がおこりました。その中で、唯識(ゆいしき)仏教という思想は、大乗仏教の深層心理学というべきもので、心のあり方について深い考察がなされています。



驚くべきことには、西洋においては、20世紀になって、フロイトやユングによって発見された無意識の世界について、紀元4世紀くらいに、唯識仏教では、すでにユングと同じような考察をしていたことです。


禅では、悟り体験について「(はっ)(しき)田中(でんちゅう)一刀(いっとう)(くだ)す」という表現をつかいます。

ここでいう「(はっ)(しき)」が唯識思想の用語です。


禅仏教も、インド仏教の唯識(ゆいしき)思想によって理解できる面がありますから、唯識(ゆいしき)思想をとおして、仏教の深層心理学を説明しましょう。


唯識では、人間の心理を8段階に分類します。


まず、誰もが認識できる表層心理として、「眼識(げんしき)」「()(しき)」「()(しき)」「(ぜっ)(しき)」「(しん)(しき)」の()(しき)」があります。これは、感覚のことで、それぞれ「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」にあたります。







人間禅道場の紹介③

私は、最初の3か月くらいは、白田(はくた)老師とお会いする機会がなく、択木(たくぼく)道場で10年以上の修行経験のあるベテランの方に、坐禅の基本的なやり方を教わり、法話をきき、また、立田英山(たつた えいざん)老師が書かれた本や小冊子を買って読んだりしながら、勉強しました。



その際、道場の先輩方から言われたことは、「一日一炷香(いちにち いっちゅうこう)」という人間禅道場の指導方針でした。

これは、立田英山老師の指導方針であり、また、ご自身が学生時代から守り続けた習慣でもあります。



「一炷香(いっちゅうこう)」というのは、お線香一本が燃える時間ということで、人間禅道場では、45分を基準にしていました。

「一日一炷香(いちにち いっちゅうこう)」とは、毎日、家で、45分くらいは、坐禅をしなさいという意味です。



忙しいときは、45分でなくても、10分でも、20分でもよいから、毎日坐禅することが大事だと指導されました。学生時代のように時間があるときは、5分くらいの休憩をはさんで毎日二炷香以上、坐禅をするともっと良いといわれました。



毎日坐禅することによって、坐禅が身について、坐相もよくなり、足が慣れて、痛みも次第に感じなくなり、呼吸も深くなり、坐禅中の瞑想度が深くなって、修行が進むということです。逆に、摂心会のときだけ一日10時間も坐禅をしても、家で毎日坐禅しないと、せっかくの努力が身につかないということでした。



のちにわかったことでしたが、明治時代の円覚寺の管長であった釈宗演(しゃくそうえん)老師も同じ趣旨のことを本に書かれていました。釈宗演老師は、毎日、寝る前と朝起きた時に、短時間でもよいから、坐禅をしなさいと居士(こじ:一般社会人)の修行者に指導されたそうです。



私も、さっそく、最初の坐禅会のあとから、家でも坐禅をするようにしました。もっとも、最初は、45分間も続けると足が痛くてたまらないので、20分~30分程度ではじめました。45分坐禅するときは、途中で休憩をいれていました。また、最初のうちは、さぼって坐禅をしない日も、結構ありました。



ただ、択木(たくぼく)道場の毎週火曜日の例会には、必ず出るようにしたので、そこでは、45分間を2回坐禅しなければなりません。法話がある日は、坐禅は、1回ですが、後半の法話の時間帯も基本的に坐禅の格好でお話をききますので、足が痛むことに変わりありません。



最初は、ともかく例会の時に足が痛まなくなるようにということを目標に毎日家で坐禅をした次第です。

ところが、不思議なもので、毎日のように家で坐禅をしていると体がどんどん慣れてきて、2か月もすると、毎日45分くらいの坐禅は苦ではなくなり、週の例会でも、それほど、足も痛まなくなりました。


それとともに、家で毎日坐禅することによって、少しずつ気持ちが落ち着いてくるようで、坐禅自体が楽しくなってきました。坐禅の後に、さわやかな気持ちが味わえるようになりました。



「自分も、大分坐禅になれてきたな」

と思い始めた11月の中ころに、択木(たくぼく)道場で摂心会(せっしんえ)という1週間の合宿形式の修行の会がありました。



私は、最初は、それほど、坐禅に熱心だったわけではなく、

「合宿まで行かなくて良いのではないか」と思っておりましたが、

先輩方が、「摂心会に行かないと、本当の禅の修行がどういうものかわからない」

とさかんに出席を進めます。



なにより、摂心会では、普段は、択木道場に来られない白田(はくた)劫石(ごっせき)老師の「提唱(ていしょう)」という講義が毎日あるというお話をうかがって、老師の話というのがどんなものか一度聞いてみたいと思い、参加することにした次第です。



その時は、摂心会がどれほど大変なものか、まったく理解せず、ごく気楽な気持ちで参加したのでした。しかし、摂心会(せっしんえ)に参加してみると、それは、初心者にとっては、地獄のような厳しさでした。


摂心会(せっしんえ)については、項を改めて、ご説明しましょう。


                       (この項終わり)















人間禅道場の紹介②

人間禅道場は、純然たる居士禅の会であり、指導者である老師(ろうし)を含め、皆さん、僧侶ではありません。


私が初めて人間禅択木(たくぼく)道場にいった1982年には、すでに、初代の指導者である立田英山(たつた えいざん)老師は、お亡くなりになっておられ、立田英山老師の弟子である白田劫石(はくた ごっせき)老師が指導をされておられました。



当時、択木道場を指導されていた白田劫石(はくた ごっせき)老師は、千葉大学の文学部長も務められたことのある西洋倫理学専攻の学者で、千葉大学名誉教授であり、千葉県松戸市にある聖徳短期大学の教授でした。



直日(じきじつ)という坐禅会の修行者側のリーダーは、司法書士さんでした。それ以外のメンバーは、一般企業のサラリーマンが多かったと思いますが、医者、弁護士、教師、大学教授など専門職の方もいるし、自営業者や中小企業の経営者もおられました。学生も、数は少なかったのですが、おりました。



白田(はくた)老師をはじめ、中心メンバーの多くは、私のように学生時代にご縁ができて、大学卒業後も、普通の仕事をしながら、平日の夜や、土日休日などに、熱心に禅道場に通って修行を続けておられる方が多かったです。もちろん、社会人になってから、ご縁ができて通いだした方も、たくさんおられます。



私が、はじめて、参加した毎週火曜日の坐禅会では、老師はこられず、直日(じきじつ)が中心になって運営されていました。白田(はくた)老師は、原則として年3回の摂心会(せっしんえ)という1週間単位の合宿形式の坐禅会のときだけ、指導にこられました。しかし、その時は、1週間、道場に泊まり込みで指導をされます。



白田老師は、当時、60代半ばでしたが、東京の日暮里にある択木道場以外にも、千葉県市川市の人間禅本部道場、千葉県四街道(よつかいどう)にある人間禅房総道場、名古屋にある人間禅東海道場と全国4つの禅道場を指導されておられました。



各道場が、年3回、摂心会(せっしんえ)という合宿をします。市川の本部道場だけは、年5回も摂心会がありましたから、年間14回の摂心会を白田(はくた)老師は指導されておられました。


毎月のように、白田(はくた)老師の指導される摂心会(せっしんえ)がどこかで行われているわけです。

摂心会(せっしんえ)の1週間は、老師も道場に泊まり込んで弟子たちを指導されておられますから、時間的にも、肉体的にも、負担が大変です。白田老師は、禅道場の指導以外に千葉の聖徳短大で倫理学の教授もされていましたから、とても毎週の例会にまでは指導に来られないのです。



なお、名古屋や四街道は、東京から離れておりますが、市川の本部道場は、都心に近いので、人間禅の会員の中には、日暮里の択木道場と市川の本部道場の摂心会(せっしんえ)に両方参加される方も結構おられました。



したがって、毎週の坐禅会では、直日(じきじつ)という老師ではないのですが、禅道場の修行者のリーダーを中心にベテラン会員が毎週の例会を指導していました。


また、月に1回か、2回は、長老格の超ベテランの先輩が、法話をしてくださったり、茶話会と言って、お茶を飲みながら、お話をする機会もありました。



                              (続く)