阿頼耶識(あらやしき)とアカシックフィールド①
仏教の深層心理学である唯識思想においては、意識の下の心の奥底に、第七識・末那識(まなしき)と第八識・阿頼耶識(あらやしき)があると説かれています。
末那識(まなしき)は、ユングのいう個人的無意識に相当し、阿頼耶識(あらやしき)は、ユングのいう普遍的無意識(集合的無意識)に相当します。
しかし、阿頼耶識(アラヤシキ)の守備範囲は、人間の無意識にとどまりません。
人間だけではなく自然界を含めたあらゆる存在を生み出すものとされています。
あらゆる存在の経験や記憶の貯蔵庫が阿頼耶(アラヤ)識であるというのが唯識の教えです。
従来、この教えは、哲学的に人間の認識の範囲が感覚と意識を中心に八識の範囲からでないことから、人間が認識しない以上、物の実在は証明できない、だから、すべての世界は、人間の認識の産物であるというように説明されてきました。(「三界唯識(さんがいゆいしき)」という思想です。)
しかし、私などは、自分の禅体験をもとに、唯識(ゆいしき)思想は、人間の深層心理の偉大さを比喩的に説明しているのだろうと思っておりました。
坐禅を一生懸命しますと、特に、「見性(けんしょう)」という最初の「悟り」体験をいたしますと、世界と自分が一つにつながっているような実感が得られます。
禅でいう「仏性(ぶっしょう)」が唯識(ゆいしき)でいう「阿頼耶識(あらやしき)」のことで、深い悟り体験をえた昔の偉大な仏教者が、自分の悟り体験を哲学的に説明するために、「阿頼耶識(あらやしき)」を考え、すべての存在の根源と説明したのだろうと推測していたわけです。
世界の存在が、すべて、人間の認識によるもので、その原因や結果が「阿頼耶識(あらやしき)」に貯蔵されているという教えは、常識的な世界観からは理解しにくい面があります。私が比喩的な説明と感じたのは、裏えせば、とても、現実の自然の姿とは思えなかったからです。その理由は、学校で習った自然科学的な世界観と全く相いれないからです。
しかし、私は、アーヴィン・ラズロ博士の著作を読んで、考えが変わりました。
ラズロ博士は、通常の方法では観測できないが、「アカシック・フィールド」略して「A-フィールド」という宇宙全体の歴史を蓄えたデータベースがあり、人間は誰でも意識せずに「A-フィールド」と情報のやり取りをしているという壮大な仮説を提唱しています。
私は、ラズロ博士の仮説を知って、自然界には、「A-フィールド」という特別な情報の貯蔵庫が実際に存在するらしいということを理解しました。
と同時に仏教やヒンドゥー教を作ったインドの人々は、深い瞑想による禅定(ぜんじょう)体験、三昧(ざんまい)の体験によって、「A-フィールド」の存在に明確に気が付いたのではないかと思います。
そして、唯識仏教では「A-フィールド」を説明するために「阿頼耶識(あらやしき)」と名付けたのではないかと考えるようになりました。
「A-フィールド」は、禅でいう「仏性(ぶっしょう)」とも、実体としては同じものであり、見方や説明の仕方が違うだけではないかと考えています。