私の最初の坐禅体験について③ | ビジネスに生かす東洋哲学

私の最初の坐禅体験について③

初めていった禅堂で、初対面の大人から、いきなり大声で怒鳴られたら、しかも、その理由が「坐禅中にもじもじした」ことだけですから、普通は、腹を立てて2度と行かないでしょう。

しかし、私には、怒鳴られた体験が、とても新鮮でよかったのです。



体育会など運動部に入っていない私にとっては、大学に入って、初めて、他人から真剣に本気で怒鳴られた経験でした。

それも、40歳くらいの初対面の大人が、20歳そこそこの学生に対して、坐禅中に、もじもじしただけで、禅堂が揺れたかと思うような大声で怒鳴るとは、これは、ただ事ではないと感じました。



ベテランの人たちが、一見、静かに気持ちよく坐禅しているように見える中で、なにか、とてつもなく真剣なものがあるということに気が付きました。

つまり、私には何かはわからないけれども、坐禅によって、何かの「真理」を真剣に求めているらしいということが、はっきりと理解できました。


いわゆる「求道心(ぐどうしん)」が、静かな禅堂の中にみなぎっていることに気が付いたのです。



ちなみに、後でわかったのですが、直日(じつじつ)の方は、普段は、大変温厚な方で、初心者を怒鳴るようなこと決してしない方でした。

その日も、坐禅会が終わった後で、何事もなかったかのように、

「笠倉君、来週も、ぜひ来てくださいね。」

とにっこり笑って、話しかけてくれました。



その笑顔も、良かったですね。

つい20分くらい前に大声で怒鳴ったことが、まるでなかったかのような、さわやかな笑顔でした。その笑顔をみて、私を怒鳴ったことは、少しの悪意もなく、ただ、私を励ます意味だったのだと、すぐに理解できました。



それにしても、温厚な人が、なぜ、あの時、私のことをあれほどの勢いで怒鳴ったのか、今でも、不思議な気がします。


長年、坐禅をやっていると、坐禅中は、アルファ波がたくさん出て、平安な気持ちになりますから、日常生活の中でいやなことがあっても、坐禅会の間は、それを忘れて坐禅をできます。

それに、誰もが初心者の時に足が痛んで苦しんだ経験を持っていますから、ベテランの人は、初心者の足が痛むことは、誰でも知っています。本来は、その程度のことで、腹を立てることはありません。



また、初心者に注意するとしたら、坐禅中は静かですから、普通の声でいえば、よく相手に聞こえます。普通の声で、

「坐禅中は、動かないように。どうしても足が痛かったら、静かに合掌して、しばらく足を崩して、しびれをとってから、また坐禅しなさい。」

と指示すれば、それで済むわけです。


のちに、私が早稲田大学に学生向けの坐禅会を作って、直日(じきじつ)をしていた時は、いつも、そのようにしていました。



いきなり初対面の学生を怒鳴るというのは、人間禅道場では、異例な対応でした。

禅堂によっては、最初から怒鳴りまくって、教育するところもあるようですが、人間禅は、ベテランの社会人会員が多いこともあって、初めて坐禅会に来た人を怒鳴るようなことは、普通はしません。



怒鳴るとしたら、むしろ、それなりの経験者が坐禅中に寝ているとか、明らかに気が散って集中していないようなときです。そういう人に対しては、禅堂でいくら怒鳴っても、あくまでも励ます意味であることをお互いに知っていますから、問題ありません。


しかし、初心者の場合は、坐禅のことを何も知らないわけですから、うっかりするととんでもない誤解を与えて、二度と坐禅会に来なくなるかもしれません。

ご縁があって、坐禅会に来ていただいた人をそういう形で、追い返すようなことは、仏道の上から見ても、不遜な行為です。



しかし、あの一喝(いっかつ)によって、私の気持ちに火が付いたことは確かです。

一見静かな禅の世界に、どのような秘密が隠されているのか、何をそこまで真剣に求めているのか、自分も知りたくなったのです。それで、毎週火曜日の坐禅会に通うようになりました。


あの時、本来温厚な直日(じきじつ)を大声で怒鳴らせたのは、私を坐禅に向かわせるための「天の声」だったのかもしれません。


                        (この項終わり)