目的というものは、元を質すと論理的ではないものに行き着きます。と言うのも、そもそも論理的な議論というものは、前提、論理展開、結論から成りますが、前提に何を持って来るかはまったくの自由であり、論理性とは無関係です。目的は前提に当たるものなので、これに何を持って来るかは論理の外、まったくの自由ということになります。

 

「論理的に考えて、これを目的にすべきだ」と結論付けられる議論があったとしたら、もっと根源的な高次の目的がすでに暗黙のうちに想定されており、それをたどっておおもとの目的を見付ければ、なぜそれを目的に据えたのかということは論理では説明できないでしょう。そもそも「これを目的にすべきだ」と言う議論は、たいてい実現性のために理想を捨てる妥協の議論でしかありません。

 

論理を扱える者が必ずしも目的の概念を持っているとは限らないと想像しますが、ともかく私たちのような知的生命体はその両方を持っていることを自覚しています。また、私たちが物理的実体を持つ生物として実装されているがゆえに、実際的な問題として、どうしても目的の要素として含めなければならないことが、自己保存です。ただし、ここで言う自己は必ずしも個体としての自己ではなく、集団や種としての自己の場合もあります。

 

知性体にとって自己保存が目的たり得るのは、自己が無くなってしまえば、自己を手段とする他のどの目的をも叶えることが不可能になるからです。なので自己保存の根底には、他の任意の目的の実現という高次の目的があると考えられます。その何らかの高次の目的を持っている知性体にとっては、自己の保存は根底の目的ではなく、高次の目的にとっての手段に過ぎません。

 

自己保存を目的にしても生物としては十分ですが、知性体としては高次の目的を持っている方がカッコイイですよね!

(結論これで良かったのかな…。)

 

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社会には色々なルールがあり、それを破ると生物的に殺されたり社会的に殺されたり罰を科されたりするので、みんな従っています。あるいは見付からないように破ります。スポーツにもルールがあり、それを破ると反則と判定され退場になったりペナルティを科されたりするので、みんな従っています。あるいは見付からないように破ります。これらはすべて人間が勝手に作ったルールであり、みんな罰を恐れて守っているだけで、原理的に破ることができます。

 

では、破ることのできないルールは存在するのでしょうか。ひとつだけあります。それは自然界の根本ルールである物理法則です。この世界のすべての存在は物質であり、物質はすべて物理法則に従って運動しています。物理法則に反する運動を行なうことは不可能であり、物理法則というルールを破ることは、どうやってもできません。みんな大人しく従うしかありません。すばらしいですね!

 

通常、真の物理法則は時間変化しないと考えられています。でも、人間が知っている物理法則はまだ完全なものではなく、物理学の研究の進展に伴って改訂されて来ました。最も有名な例のひとつとして、昔はニュートン力学だったのが、後になって相対性理論が出て来た、という話があります。古い物理法則では説明できなかった謎の現象が、新しい物理法則で説明できるようになるわけです。新しい物理法則の下では、今まで考えられなかった新しい技術を開発することもできます。原水爆も作れるようになりました。

 

社会的ルールの話に戻ると、人にルールを強制するには脅さなければなりません。脅すには強力な力が必要です。力こそパワー! ここで言う力はForce、純粋な物理的な力ですが、Powerとは権力の意味もあり、言わば社会的な力です。物理的な力で社会的ルールを強制するのです。現代の社会的ルールの強制力は、最終的に行き着く所は最強の力、原水爆の力です。別に原水爆でなくても良かったのですが、とにかく最強の物理的な力です。

 

現在の最強の力を超える新たな最強の力を手に入れれば、新しい社会のルールを自由に強制することができるかもしれません。そのためには新たな物理法則を発見することです。そのため先進国は常に必死で物理学を研究しています。でも最近は素粒子物理学は停滞しているし、現在の物理法則の範囲内でも例えば情報や生物の分野で研究の進展が見込まれることは沢山あるので、能力のある研究者がそれらの分野へ流れていると言われています。それらの分野の方が、世界を牛耳るという目的のためには効率が良いと言うわけです。

 

と言っても、情報は、それが記される物体が無ければ存在できません。純粋な情報体というものは、この物理世界には存在しないのです。生物も物質です。どちらも物理的な力で破壊できるので、脅しは有効です。

 

ところで、私は元々社会にはまったく興味が無く、純粋な気持ちで自然科学を学びました。ですが、少し社会に目を向けてみたところ、みんな不純な動機で研究しているのだなぁ、と気付かされました。まぁ別に科学が発展するのなら、どんな動機でも構いませんが。

 

あと、古くさい考え方で、ごめんね!w

 

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科学では因果律を大切にします。すべての現象には、原因があって、結果がある、と考えます。時間的には、原因は結果の前にあります。

 

一方で、目的という概念はどうでしょうか。目的の概念は、まだ実現していない何かを実現するために、手段として何かをする、というものです。と言うことは、今現在の行動の原因は、想定した未来にあるわけです。表題の「目的とは未来にある原因」というのは、そういうことです。この目的の概念は、原因が結果の前にあるという因果律に反します。なので、因果律を重んじる科学では取り扱いません。

 

人間の行動は、目的の概念を使わないと解釈が難しそうに見えますが、唯物論的には、「まだ実現していない、想定した未来」というのは、本当の未来ではなくて、目的を持った人間の頭の中だけにある架空の未来に過ぎない、と考えられます。その架空の未来というものは「ニューロンの束」とも言われる物体としての人間の脳で表現されているものであって、未来に存在するものではなく、現在に存在するものです。未来の目的を原因として行動しているように見える人間の行動、という結果も、結局、時間的に先行する脳の状態が原因なので、因果律には反しません。こういう解釈が可能であるから、わざわざ因果律に反する目的の概念を導入する必要が無いのです。

 

生物学の分野では、案外、目的論的な表現が使われることも多いです。生物は自己を保存する、ないし自己の遺伝子を残すことを目的とした分子機械である、と考えると理解しやすいからです。でも、唯物論的には、それも自然淘汰で説明できます。自己を保存するように、たまたま出来ていた者だけが、現在、生物として生き残っているので、そのように見えるだけ、というものです。自己を保存する者しか生き残れないのは、ただの当然です。そこには目的論は必要無いのです。

 

そんなわけで、人生の目的を科学に求めても、無駄です。あきらめましょう!

(結論これで良かったのかな…。)

 

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論理的な議論は、前提と、論理展開と、結論からできています。論理展開に間違いが無ければ、与えられた前提の下では、得られた結論は常に論理的に完全に正しいことになります。こういうものが正論と呼ばれていると思います。

 

正論らしきものを言われても納得できなかったときは、どうしましょうか。まずは論理展開を検証し、飛躍や間違いや誤魔化しが無いかを探して、もしあれば指摘しましょう。また、論理展開に問題が無いときは、相手が考えている前提が自分が考えているものと同じかどうか、確認しましょう。論理的帰結が正しいのは、飽くまで与えられた前提の下でのみです。前提が異なれば一般に結論は異なります。相手が考えている前提が議題から外れているようなら指摘しましょう。また、相手が何か前提を忘れているようなら、それを追加して考え直すよう言いましょう。理想主義者がコストを考慮に入れ忘れることは良くあって、正論に汚名が着せられている主な理由にもなっています。

 

では、前提が妥当で、論理展開に間違いが無く、それでもあなたが結論を受け入れられなかったら、どうしましょうか。それは、あなたが間違っています! あなたが論理的であれば、受け入れられないはずはありません。

 

それでも受け入れられなかったら! もはや、あなたは論理的ではありません。感情のまま、机を蹴り飛ばし、汚い捨て台詞を吐いて、その場から立ち去りましょう。そして、あなたを慰めてくれる優しい人の元へ逃げ帰り、こう言うのです。ロジハラを受けた、と。

 

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愛国心は、自分が住んでいる国を好きだという気持ちだけれども、それは果たして純粋なものでしょうか。国が滅べば自分も滅ぶ、だから自分の国を大切にする、というだけであれば、打算的なものであり、自己愛の延長に過ぎません。打算的なものが悪いとは言わないけれど、自覚はすべき。

 
たまたまA国に生まれたから、そのA国を愛するのか。もしそうなら、その人がたまたま別のB国に生まれていたら、B国を愛していたことになる。どんな国でもいい、たまたま自分が生まれた国を愛する。そんなものは愛と言えるのだろうか。これも自己愛の延長に過ぎない。
 
情報がいくらでも手に入るこの時代、せめて世界を俯瞰して、あらゆる国を比較して、自国と他国の良いところ・悪いところを洗い出し、それでも自国が総合的に良いと言えるなら、そこで初めて本当に愛する理由になるのではないでしょうか。一方で、その探求の結果、母国よりも自分にとって良いと思える国を発見し、そこに移住するとしたら、それも愛国でしょう。もちろん、それが単なる打算ではないと言えるなら、の話だけど。
 
理想的には、その国に生まれ育って生活して、それが幸せであったなら、社会への感謝とともに、自然に愛国心が生まれるでしょう。おそらく、そうやって育まれた愛国心こそ、国の危機に際しても、他国に逃げようとしたりしないで、危機に立ち向かう力の源になるのでしょう。でも、それは理想であって、期待されても困る。
 
ちなみに私の愛国心は、打算的なものが一番ですが、それだけでもありません。世界の国々はどれも駄目駄目だけど、日本は一番マシだと思っています。唯一の希望と言っても過言ではありません。だから守るべきだと思います。社会への感謝は無くとも、ある種の愛国心は持てるのです。
 

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自分は、自分が存在するときしか存在しない。あたりまえだけど…。では、環境はどうなっている?

 

自分が存在するとき、自分の周りの環境は、自分が存在するのに適した環境である。逆を言えば、自分が存在するのに適さない環境であれば、自分は存在できないのだから、自分は存在しない、となって「自分が存在するとき」という仮定に反する。よって何時でも自分の存在に適した環境である。

 

環境が何時でも自分に適してるんだって! 安心しましたか? でも、安心するのは、まだ早いです。ここで言っている「自分」は、最低限の自分です。最低限おそらく生物的に生存し、なんとか意識がある、つまり「自分が存在する」と自覚できる主観的意識が存在する状態のみを言っているに過ぎません。ひょっとすると人前に出れないほど醜い姿かもしれないし、痛みなどの肉体的苦痛に苛まれているかもしれないし、もしかするとヒトですらないかもしれません。なので、ここでの議論は、普通の意味では、何の安心も与えてくれないのです。もしここでの議論で少しでも安心が得られたとしたら、あなたはよほど存在が危ぶまれている状態でしょう。

 

最初に戻ると、自分が存在しないときは、自分のことを考える必要は無い、なぜなら自分が存在しないのだから。そして自分が一度存在しなくなってから、もし再び自分が存在することになったとき、環境はきっと自分が存在するのに適したものであるはずです。上記の意味で。

 

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ネット上の議論では、特に匿名掲示板では、汚い言葉が沢山飛び交っている。でも、慣れてしまえば、そんなものは気にならなくなる。逆に言えば、汚い言葉に慣れないと、匿名掲示板を読むのは難しい。

 

汚い言葉のほとんどは感情に関する言葉である。書き手の感情の表明か、読み手の感情への作用を狙ったものか、どちらにせよ、理性的な議論とは関係無い。汚い言葉が入って来たら、脳内フィルタで理性的な言葉に変換すれば良いだけ。自分が書くときは普通に理性的な言葉を使えば良いだけ。

 

汚い言葉を脳内フィルタで変換すると、無意味になることがある。ただの罵りなど。そういうときは相手に、理性的に議論しよう、と伝えることにしている。まぁ、すでに議論が終わってることも多いけど。

 

でもまぁ、それは建前。私にも感情は、あるから。

 

私は、相手が汚い言葉を使っても感情が刺激されることはあまり無いけれども、話の内容によっては感情が刺激されることがある。そういうときは、敢えて汚い言葉を使うことも、たまには、ある。相手も私のように脳内フィルタを備えているなら、どうせ汚い言葉を受けても動じないだろうから、問題無いはず。まぁ、理性的な議論において感情の表明は無意味だけど、実際に沸き起こった感情を抑え込むのも、ストレスになるだけであって、議論において特に意味は無い。

 

一方で、ブログでは、汚い言葉は極力使わないよう封印している。汚い言葉について論じるこの投稿の中であっても、汚い言葉の具体例を挙げるのを避けているほど。コメント欄はあるにせよ、ブログは対話ではなく一方的な表明なので、反論を許さない場で汚い言葉を使うのは卑怯だと思うし。

 

そんなわけでみなさん、汚い言葉を使わないよう心掛けましょうねっ。

世界はひとつ、と言うと、平和主義? と思われそうですが、そういう話ではありません。

 

仮に世界が2つあったら、その2つの世界を合わせたものが本当の世界だから、やっぱり世界はひとつだ、ということです。言い方を変えると、この世界に住んでいて、異世界を発見したら、それはもはや異世界ではなくて、この世界の延長なのです。

 

異世界の物理法則がこの世界と異なっていても、境界で物質のやりとりがあるのであれば、変換法則があるはずです。この世界の法則、異世界の法則、変換法則、それらすべてを合わせたものが真の世界の法則であって、全体として、やはり世界はひとつなのです。

 

では、まったく物質のやりとりが無い、隔絶された異世界が存在する可能性はどうでしょう。まったく物質のやりとりが無ければ、この世界から異世界を観測することはできません。なので異世界の存在を証明できません。そのようなものは考えても意味が無いので、存在しないとするのが簡単です。結局、存在すると考えられるのは我々の住んでいるこの世界だけということになり、やはり世界はひとつです。

 

以上は唯物論的な考え方でした。でも、空想、幻想、精神世界では、この限りではありません! そこには異世界がきっとあります、あきらめないでください。私は異世界が大好きです。気持ちだけは異世界の住人です。

 

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この世界に完全なものは、ひとつも無い。なので自己や他者や事物に完全を求める完全主義者は苦しむらしいけれど。

 

インコを飼って思ったけれど、このインコは完璧だ、と思った。インコもこの世界の存在なので、例外ではなく、不完全なはず。でも私がこのインコを完璧だと思うのは、私のインコに対するインコ愛が、インコの不完全さを補い、完璧にしているからだ。

 

つまり、完全主義者にとって、愛とは不完全な対象を補い完璧にする、「詰めもの」みたいなもの。自分の愛が大きければ、より不完全なものを完全にできる。愛のない完全主義者は、不完全なものしか存在しないこの世界では、対象を完全にすることができず、苦しむのだろう。さらに言うなら、完全主義者は愛を持つことでやっと完全になれるのだ。

 

昭和のころにテレビから流れて来た外国の映画とかで、男が女を口説くとき、「君は完璧だ」とか言うやつ。おだててるとか酔ってるとかいう解釈もできるけど、僕には君への愛があり、その愛によって君が完璧になっている、ということの告白とも解釈できる。まぁつまり愛しているということなんだけれども。さらに男は「君には僕が必要だ」とか抜かす。僕が君を必要としているのは明白だけど、何でその逆まで言えるのか。君は不完全な存在だけど、僕の愛で補うことによって完璧になれる。だから君も完璧になりたいなら僕を必要とするはず、という論理?だろう。

 

まぁ私も以前なら、そんなもの生物学的・物理的・幾何学的に補完したいだけだろ、と思っていたけれども、今はこのインコ愛のお蔭で無粋な解釈は控え目になりました。

 

インコはすばらしい!

 

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どれだか忘れたけどGIGAZINEの記事を読んでいたら、知らなかった概念を見付けた。「さらなる言論」(対抗言論)というもの。ウィキペディア日本語版から引用すると:

対抗言論(たいこうげんろん)とは、 言論などの表現活動について安易に侮辱や名誉毀損による民事責任、刑事責任が成立するとすれば、表現の自由の保障が阻害され、自由な表現活動に対する萎縮効果が生じるという問題意識を背景として、両者の調和を図る観点から認めるべきとされる法理である。

とのこと。これは使えそう。

 

匿名掲示板などでは良く「訴えてやる」とか軽々しく言う煽りを見掛ける。それで議論、というか対話が萎縮するのは見ていて悲しい。互いに表現の自由を謳歌しているはずの論者同士であったはずなのに、掲示板の外部の法的圧力を召喚するのは卑怯だ。議論から逃げている。

 

「さらなる言論」の概念には、これを解消する可能性がある。この概念の下では、相手に侮辱されても、まず自分が言論により名誉回復を試みることが要求されている。それで名誉回復すれば良し、駄目だったら、それから訴えてみてね、ということ。最初から法的手段を取ることには抑制的に働く。

 

でも日本では最高裁で「さらなる言論」が認められたことは、まだ無いんだって。だから当事者になってしまったときは、この概念で対抗しようとしても最終的には敗けるだろうから、注意して使わないといけない。