私たちは知性体です。世界を理解しようとします。

私たちは有限です。一方、世界は無限です。実際は世界も有限だと言われていますが、ここで言いたいのは、世界は私たちよりもとてつもなく大きいということです。

小さいものに大きいものは、そのままでは入りません。何らかの圧縮が必要です。あるいは、部分的に切り捨てる必要もあるかもしれません。どちらになるかは、やってみなければ分かりません。

圧縮とは、冗長性を発見することです。冗長性とは何か、例え話をします。きれいな柄のタイルが敷き詰められた床を表現するのに、床全体をそのまま記憶するには大きな記憶が必要です。一方、代表となる1枚のタイルの柄と、タイルが縦横何個ずつ敷き詰められているのかという数値を記憶すれば、小さな記憶で足ります。このような表現の変換が圧縮です。タイルの同じ柄が繰り返されていることと、タイルが乱雑ではなく規則正しく並んでいることが冗長性です。

世界を理解する場合の冗長性は、自然法則です。一見混沌としている世界の中に、法則を見出すことで、多数の個々の具体的な配置や運動状態を知らなくても、全体を理解したと解釈するのです。有限の私たちが無限の世界を理解するには、自然法則を発見するしか無いのです。

もしかすると、世界には自然法則など無くて、真に混沌としているのかもしれません。有限な私たちが無限の世界を理解しようと無理をすることで生まれた幻想が、自然法則なのかもしれません。でも、それを確信することは、決してできないのです。この不安は受け入れつつ、前に進むことになります。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

死ぬより苦しい程度では、崇高な目的を放棄すべきではありません。崇高な目的を放棄すべきときがもしあるとすれば、より崇高な目的に出会ったときだけです。

そもそも、崇高な目的を放棄することは、どんな「死ぬより苦しいこと」よりも苦しい。なぜなら、そうあるべきだからです。最大の苦しみとは、目的が達成できないことです。そうあるべきです。

生きることは崇高な目的を達成するための手段です。目的を達成するまでは死ぬべきではありません。なぜなら、死んでしまえば目的を達成できないからです。一方で、もし死ぬことで目的を達成できるなら、即・死ぬべきです。そんなものが崇高な目的であったら、また、そんなことで目的が達成できるとしたら、の話ですが。

ところで、すべての苦しみから逃れることは、崇高な目的たり得るでしょうか?

すべての苦しみから逃れようとする人たちは、元々目的を持っていない人たちです。あるいは、目的を持っていたけれども、達成できずに絶望した人たち。あるいはまた、目的を達成して満足した人たちです。要するに、始めから、あるいはもはや、生きる意味が無い人たちです。

あなたがこれらのどれでもないのなら、つまり、崇高な目的を持っていてまだ達成していないのなら、無闇に苦しみから逃れようとしてはいけません。逃れる代償として目的が達成できなくなったら、絶望するしかありません。それはどんな「死ぬより苦しいこと」より苦しいのです。そうあるべきです。なぜなら、崇高な目的とはそういうものなのだから。
 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

科学は常に未完成です。世界のすべてが理解されたわけではありません。どうやっても解決しないのではないかと思われる問題も転がっています。科学が世界のすべてを説明できるようになる日は、もし何時か来るとしても、近い未来ではないと期待されています。

それでも科学は常に進歩しています。未知の領域は少しずつ狭まって来ています。何時か世界のすべてが理解され、未知の領域が無くなる日が来るのか、それとも科学では解明できない絶対的な神秘の領域が残るのか、それは誰にも分かりません。ですが、科学の研究では常にまだやれることが沢山あるので、職業科学者たちはそういう課題をメシのネタにして生活しています。

一方、神秘主義者たちは、神秘の領域が残る方に賭けています。現在の科学で解明できていないことが残っているのを良いことに、最後まで神秘は残ると決め込んでいます。科学が進展すると、それまで神秘であったことが自然現象と解釈されるので、神秘主義者は後退しなければなりません。常に後退して来ました。これからも後退するでしょう。

まだまだ神秘の領域は広いですが、中心にはおそらく主観があるでしょう。クオリアと呼ばれているものです。いっそのこと最初からそこに拠点を置けば、今のところ、うまく行けば永遠に、科学の侵略から守られるかもしれません。なので神秘主義者たちはそこに引き込もって安心するのがトレンドです。
 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

神秘主義とは、人知の及ばぬ何らかの真理が存在し、人は何らかの方法でその真理を確信できる、という考え方。この定義でおそらくすべての神秘主義を含めるのに十分です。我々唯物論者にとっては。

例えば、神は存在するか、という問いに答えはありません。ですが、神秘主義者はまず、その答えの無い問題にも、隠された答え、真理があると考えます。神は存在するか、存在しないか、のどちらかであるはずだ、と。そして内なる探求の結果、どちらかを決め込みます。神は存在する、と決め込めば何らかの宗教的信者になるし、神は存在しない、と決め込めば無神論者になります。どちらも神秘主義であって、この決め込みを確信と呼んでいます。最近はもっと軽く、気付き、とか呼ばれています。

唯物論者の我々は、知り得ないものは分からないままで満足します。とりあえずはね! 無理に答えを捏造する必要はありません。知り得ることで、まだ知らないことは沢山あるのです。探求はそちらに向けます。その中で何か革新が起これば、知り得るものも増えるというわけです。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

あなたがもし、自分が異世界の住人だという自覚を持っているなら、この世界には最適化してはいけません。最適化と言うのは、この世界での幸せを追求することです。また、この世界を知り尽くそうとすることです。もちろん、すべての苦痛から逃れようとすることも、含まれます。

気を付けないと、元の世界に帰れなくなっちゃいます。重要なのは、入ることと、出ること。出れなくなったら、喰われたってことです。

分かっているとは思うけど、この世界はそんなに良いものじゃないから。あなたが何処から来たのか知らないけれど、たいてい元の世界の方が良いに決まってます。
 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

たぶん分かっていると思いますが、この世界には神は居ません。また、魔法もありません。ただ一応、代用になりそうなものとして、科学と技術はあります。

なので、あなたがもし生まれる前、聖職者だったとしたら、この世界では神を探すのはやめて、科学を志してはいかがでしょうか。さもないと偽物にしか成れません。あるいはあなたがもし生まれる前、魔法使いだったとしたら、この世界では魔法を探すのはやめて、技術を志してはいかがでしょうか。さもないと偽物にしか成れません。

あなたがもし生まれる前、音楽家だったとしたら、あなたはラッキーです! この世界にも音楽はあります。ぜひ音楽家を続けてください。他の芸術家の方々も大丈夫です。芸術には神も魔法も科学も技術も関係ありませんから。
 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

唯物論では、この世界のすべてが物質と考えます。仮に物質ではないと思われる謎の存在が発見されたとしても、それが既存の物質と何らかの相互作用をするなら、その新たな謎の存在もやはり物質だと考えられます。一方、その謎の存在が既存の物質とまったく相互作用しなかったら、それは確かに物質ではありませんが、もはや実在しているとは言えません。なのでやはり、存在するのは既存の物質だけであり、すべては物質のままです。常にすべては物質なのです。これは以前の投稿「世界はひとつ」と、まったく同じ論法です。

物質ではないと思われる存在と言えば、精神です。仮に精神が物質に作用するとしたら、精神も物質だと考えられます。一方、精神が物質に作用できないとしたら、精神は存在しません。

我々は感覚器を通して物体を認識し、それを元に思考判断し、身体を動かして物体に作用することができます。思考しているのが精神だとすれば、これは間接的に精神が物質と相互作用したように見えます。でも、唯物論的にはここで現われた精神は脳という物体の働きに過ぎないと考えます。非物質的で純粋な精神を持ち出すことはありません。

そもそも唯物論では、上述の論法により、すべてが客観的なものになってしまいます。と言うのも、何らかの物質的な客観的存在を実在すると認めるなら、すべてが物質であり、すべてが客観的存在になります。主観的意識やクオリアといった完全に主観的なものは入り込めません。なので、あなたの主観的意識は客観的には存在しないのです。逆に、もしそれら主観的な存在を実在すると考えるなら、もはや唯物論ではあり得ません。自然科学の興味の対象外です。さようなら!

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

物理法則は数式で表現されます。数式は定数、変数、関数が組み合わされたものです。このうち定数は変化しない数値です。宇宙の何処でも、また遠い過去や未来でも一定であると考えられています。

物理学の基本的な定数はいくつかあって、その数値は実験測定によって決められます。その物理定数がなぜその数値を示しているのか、ということは通常論じません。ですが、これらの物理定数が現在の実際の値より極めてほんの少しだけでも異なっていたとしたら、宇宙の姿は現在のものとはまったく異なるものになっていただろう、ということが計算により分かっています。星々がまったく存在できなかったり、そもそも通常の物質が存在し得なかったり、といった劇的な変化です。

星々が無かったり物質が無かったりすれば、我々人間も存在できません。いくつかの物理定数が、ほんのちょっとでもずれていたら、我々人間は存在できなかったのです。逆を言えば、我々人間を存在させるために、物理定数が精妙に調整されているように見えるのです。これがファインチューニング(極微調整、勝手な訳)と言われるものです。

偶然ではありえない、やはり神が存在して人間のために宇宙を創った! とか考える人たちも現われます。でも唯物論者は別の方向を考えます。実は宇宙はここだけではなく、他にも沢山ある! と。物理定数の数値が異なる様々な宇宙が存在し、我々はたまたま人間が存在できるような宇宙に存在している。なぜ我々がたまたま人間の存在できる宇宙に存在しているかと言うと、人間が存在できない宇宙にはそもそも我々は存在できないから、我々が存在するとしたらこの宇宙しかなかった、というもの。これが人間原理のマルチバース(多元宇宙論)的解釈です。今のところ実証は無理ですが。

こんな胡散臭い議論が本当に科学なのか。どちらかと言うと科学哲学に含められることも多いようです。上で人間と言っているものは、別に人間でなくても良く、世界を認識できる観測者であれば良いとされています。また、人間原理の論理展開は観測選択効果という概念に含まれ、宇宙論に限らず案外身近な現象の解釈にも利用されたりしています。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

以前もチラと言いましたが、ブログは書き手の専制君主制です。嫌なコメントが付いたら削除すれば良いだけです。なので議論には向きません。そういうわけで、私はブログのコメントで議論を仕掛けることは今まで無かったのです。

 

ですが、最近は色々なブログを眺めるようになったので、意見を言いたくなることも増えました。そこで遂に言ってしまったのです。

 

ひとつはとあるブログで、「差別を無くそう。他者の話を良く聞こう。」という記事に、私は「差別は無くならない。棲み分けるしかない。」というコメントを付けました。でも承認されず消し去られました!

 

もうひとつは別のブログで、「間違った言動は一瞬にして関係を破壊する。怒りを表現する前に6秒待とう。」という記事に、私は「長期的な関係では、けんかしても仲直りできることの方が重要だ。」というコメントを付けました。でも承認されず消し去られました!

 

無茶でした… orz

 

ブログは議論のためのプラットフォームではないのです。まぁ私の主張が単刀直入過ぎたせいもあるかもしれませんが。ともかく、コメントが削除されたということは、あなたはあなたのブログで主張してください、と言われたものと解釈されます。寂しいですね。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

「目的のためには手段を選ばない」という言葉は、一般的には、暴力など非人道的な手段を使うことを意味しています。でも本来は、目的のために手段を選ばないことは当然です。なぜなら、手段のために目的をあきらめていては、目的と手段が逆になってしまうからです。それでも普通、目的をあきらめてしまえるほどの条件が、人間には存在する場合が多いのです。これは、論理的にはどういうことなのでしょうか。

 

通常、平時の善良な一般人は、暴力は使わないということを自身に制約しています。なので、どんなに目的を達成したくても、暴力を使わなければ達成できないと分かったら、その目的をあきらめます。これは、暴力を使わないという制約が、元々の目的に暗黙に加えられた上位の目的として働いているからです。自身に課した制約、つまり手段の選択を制限することは、論理的には、目的の一種なのです。

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村