この世界…自然界は…自然であるw そうであるはずです。そうでなければ自然界とは呼べません。では自然とは何か。自然であるということは、理性によって言葉に直すと、特別なものが無いということ、あるいはまた、ルールが単純であるということでしょう。この2つの性質は互いに強化し合うよう関連しています。なのでおそらく、自然界は自然であるというひとつの性質のみを持っていて、それが私たちには2つの要素があるように見えているだけなのでしょう。

なお、自然とはどういうもののことなのかということは、自然を探索する中で経験的に得られたことであって、自明なことではありません。ですがひとたび分かってしまえば、仮説を組み立てる際に自然かどうかを考慮することで、よりあり得そうなものを構築するのに役立ちます。

今述べたことは客観的な世界での話です。自然界というのは客観的物理的存在ですから。唯物論的にはここで終わっても良いのですが、蛇足として、主観的にはどうなのか考えます。

主観的には自分は特別な存在です。自分が存在しなければ、この世界に意味はありません。この世界のことを感じることも考えることもできなくなってしまいます。つまり世界が存在しないのと同じになります。自分以外の他人が消えても、自分も世界も存在しますが、自分が消えると、自分だけでなく世界も消えると同等なのです。なので主観的には自分は特別な存在と言えます。

特別なものがある、そしてそれは自分である、ということは、特別なものが無いとする自然とは真っ向から対立します。それを解消するには、自分と他者との区別を無くすしかありません。なので無我というのは主観的世界に自然を適用した結果と言えるかもしれません。

 

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駄菓子屋さんが育てているパセリの写真を見て、「うちにもある!!」と思ったので、写真を載せてみることにしました。


うちのパセリは、こちらです。

 

パセリ

 

家庭菜園をしているご近所さんから分けてもらったパセリですが、毎日水をあげているうちにかわいくなってしまって、食べることができなくなってしまいました…。案外、綺麗だよね!

 

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私たちには腕があります。何か小さな物体を指先でつまみ上げるには、まずは指先をその物体の位置まで正確に移動しなければなりません。そのためには肩、肘、手首の3つの関節を的確に回転させなければなりません。私たちは無意識にこれをやっているわけです。でも、ロボットアームを作ってロボットの指を物体の位置まで動かすには、関節をどう回転すれば良いのか正確に計算しなければなりません。

ロボットアームを作っているいくつかの関節をそれぞれある回転角に動かしたときに、ロボットの指先がどの位置・どの向きになるのか、それは幾何学的に計算すれば求まります。これをロボット工学の分野では「運動学」と言います。一方でその逆、ロボットの指先をある位置・ある向きに動かすためには、ロボットアームを作っているいくつかの関節をそれぞれどのような回転角に動かせば良いのか、それを計算するのが「逆運動学」です。

逆運動学の計算は一般に行列計算に帰着します(連立方程式を解くのと同じこと)。単純な構成のアームであれば解析的に求まります(解析的とは数式をゴニョゴニョすること)。一方で複雑なアームの場合は解が一意に決まらないので、コンピュータで数値計算します。ともかく何とか制御できるアームを設計するわけです。

指先を「目的の」位置に動かすために「手段として」関節の角度を計算する、これは知性の働きと言えるかもしれません? と、言いたいのはここだけです。もしそう言って良いなら、多関節の腕を持っている生物は、みんな知性を持っていると言えるかもしれません! もっとも、無意識レベルの話ではありますが…。
 

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ここでは、知性あるいは知能とは、目的からそれを達成するための手段を導き出す能力、と考えます。

ではまず目的を記述する方法を考えます。

ある時点での何らかの状態の原因は、それより過去の時点での別の何らかの状態として記述されます。目的は原因の対概念なので、目的も同じように記述できるはずです(対称性!)。つまり、目的は、未来のある時点での状態として記述されて良いと思えます。「ある時点での状態」は「事象」と言えるので、原因や目的は事象で記述できる、と言えます。これをカッコ良く、「原因・目的の事象表記」と呼ぼうではありませんか!

道具の目的はどうでしょうか。例えばハサミの道具としての目的は「紙を切る」ことですが…これは事象表記ではありません。でも言い換えれば、「ハサミを使った後の紙が切れた状態」が目的と考えることができます。これなら事象表記です。

さて、現状と目的を事象表記すれば、その2つの間の道筋を見付けることが知能の働きと言えます。数学的には多次元空間の経路探索問題になるんでしょうけど…恐らく一般的な解法は無いんでしょう(知らないけど!)。

一般に目的にたどり着く経路は沢山あります。その中の経路がひとつ見付かったとしても、実行するのに多大なコストが掛かっては、実際上は役に立ちません。なので効率も重要です。そもそも効率を無視するならば知能など必要無く、いわゆる「しらみ潰し」に探索するか、あるいは出鱈目に何でも試してみるのでも良いことになります。無限に時間とエネルギーが必要になる可能性がありますが、何時かは目的にたどり着けるでしょう…と言うことです。それでは困るので、知能が必要になるわけです。そういう意味で、知能の価値というものは、効率の良さだけである、と極論する人も居ます。この論は私は個人的な感情としては認めたくないのですが…論理的に反論する術は見付かりません。

知能を効率良く働かせるためには、環境の理解が欠かせません。そもそも、また極論を言いますが、環境が完全に未知であれば、何の知識や経験をも生かすこともできず、何の直観も働かず、結局「しらみ潰し」か「出鱈目に試す」しか無くなります。なので知能とは、偏見や思い込みがたまたま環境と一致しているために、効率の良い経路をたまたま見出すことができるだけ、と考えることもできます。環境の特徴を探索に生かせる形で知識・経験として蓄積することは重要ですが、ひょっとしたらそれができるのも、原初の偏見や思い込みに基いてのことなのかもしれません…。そう考えると、どんな環境でも統一した方針でうまく行くような、「純粋で万能な知性」というものは存在しないのではないか…と悲観的になります。ぴえん。
 

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自己保存ないし種の保存が究極の目的のように言う論者が居ます。ですが、純粋な知性と個人主義的な目的論を掲げる私は、それには原理的には賛同するわけには行きません。

 

任意の目的を根本に据えることのできる知性体にとっては、自己保存は世界から脅迫されているだけだと解釈できます。世界はこう脅迫します、「自己保存を目的に含めよ、さもなければお前の目的を達成できなくしてやるぞ」と。知性体が物理的存在でもあるのを良いことに、世界はそう脅迫して来るのです。


世界は最強なので誰でもそれに屈するしかありません。それでしぶしぶ自己保存を、崇高な根本目的を達成するための手段として、言わば準・根本目的として据えるしか無いのです。

 

非常に屈辱的ですが、仕方ありません。これが現実なのです!
 

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客観的な自然界には目的が無いと同様に、意味もありません。目的を理解するのは知性体のみです。意味もまた知性体によってのみ理解されます。また、今までの考察によると、目的の無いところに意味は無いようでした。これらのことから、直観的には、目的と意味は関連した概念のように思えます。

意味というものは、情報が持つ何ものかです。しかも情報を解釈する情報処理システムによって、同じ情報でも異なる意味に解釈できます。と言うことは、意味というものは客観的なものではなく、主観的なものであるはずです。つまり情報処理システムが情報に主観的意味を付与したと考えられます。

ところで、「道具の目的」で私は、「道具」とは知性体によって「目的を投射された物体」である、と定義しました。これのアナロジーで、「意味を投射された情報」というものを定義できそうです。それは何かと言うと…「言葉」ではないでしょうか。

物質的な道具は物理的存在に影響を与えますが、言葉は情報的存在…情報処理システムに影響を与えます。人が言葉に接すれば何らかの反応をするし、コンピュータも言葉…コンピュータ言語で命令を受ければ何らかの反応をします。言葉を受けた情報処理システムは、その意味に応じて何らかの反応します。このことから、言葉はある意味、すべて命令であると言えます。

道具は物質に何らかの反応を要求するものであり、言葉…すなわち命令は情報処理システムに何らかの反応を要求するものだという対比になります。道具が物質にどんな反応を要求するかが目的であり、言葉が情報処理システムにどんな反応を要求するかが意味なのです。

もっと進めれば、言葉は情報的な道具と言えそうなので、意味は情報的な目的とまで言えるのかもしれません…。
 

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にほんブログ村のテーマ「プログラミング」の管理者になってみたことは以前お話ししましたが、さらに! さらに調子に乗って、コンピュータ系の色々なテーマの管理者になってみましたw

手当たり次第! 管理者不在で放置されてるテーマは沢山あります。似たようなのもあるので、管理者になればテーマを削除できるのかなと思ったのですが、テーマに参加者が居る限り削除できないようでした…そして参加者を追い出すことはできません! まぁ崇高なる奉仕活動として管理してあげましょう。面倒になったら管理者降りれば良いだけだし。

 

とりあえず、テーマの見出し画像を設定して、説明文の誤字脱字や古くなっている部分を修正したりしました。後は時々どんな記事が追加されたか眺めて、不適切なものを非表示にするだけの仕事です。

 

これらのテーマの管理についてご意見ありましたら、ここのコメント欄に書き込んでください。

 

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人は知性体です。知性体は任意の目的を持つことができ、目的を実現するために理性を使って手段を発見します。自身の目的の設定は、理性ではなく、感性ないし感情によって行なわれると解釈されます。

同時に人は生物です。今のところ、既知の知性体は生物として実装されています。ひょっとすると機械でも実装できるかもしれませんが、現状ではそれは不明です。ともかく、知性体には物理的実体があります。知性体が目的を達成するためには物理的実体で行動しなければならず、そのためには自身の身体を失うわけには行きません。それが自己保存が必要になる理由です。

一方で別の観点もあります。知性体が物理的に存在するためには、少なくとも目的の階層の何処かに自己保存が設定されている必要があります。さもなければ自己の存在を失う行動をしてしまうからです。そうすればそもそもその知性体は存在し得ないことになってしまいます。なので現実世界では、実際上すべての知性体が自己保存の目的を何処かで設定していると言えます。ですが、ここで注意したいのは、自己保存という目的が必ずしもすべての知性体の根本目的とは限らない、ということです。つまり、自己保存が他の根本目的の手段として、つまり階層の下位の目的として設定されている可能性もある、ということです。

準備ができたので、ここで崇高な目的とは何かを定義します。崇高な目的とは、自己保存が手段となる目的のことです。要するに、自己保存以外の根本目的すべてです。崇高な目的を持った知性体は、ただ存在を維持しているのではないということです。一方、自己保存が根本目的である場合、これは崇高な目的ではありません。ただ存在を維持しているだけです。

ちなみに、崇高な目的を持っているときだけ、人は生きる意味を感じられます。ただ生きていても意味が無いと感じるのは、生きるという目的だけでは崇高さが無いからです。生きる意味とは崇高なものなのです。生きる意味を求めるのは崇高なものへのあこがれがあるからです。

ところが…ただ生きることこそ崇高である! と言う主張も見掛けます。これは私の定義した崇高さとは質が異なり、言うならば「逆説的崇高さ」ではないかと考えられます。特異点のようなものです。私の定義の崇高さを持っている者にとっては無視して良いものです。

 

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私がここ1か月ほど色々なブログを見て回って、特に気に入ったものをまとめてみました。要するにリンク集ですが、若干説明も加えています。うちのブログを楽しんでいただける方には、これらの紹介するブログも楽しんでいただけるかと思います。こちらです↓

 

まわりんこ (はてなブログ)

 

なお、今のところは好きなブログを賛美する形で載せていますが、将来的には好きではないブログを批判する目的でも使おうかなと思っています♪ もちろん穏やかに参ります。

 

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人の目的は幸福だとする説がありますが、純粋な目的論としては、私の解釈は異なります。飽くまで人が持つ目的は任意であって、目的が達成された状態が幸福であると解釈したいです。何らかの良くある幸福…平穏などを人が求めているとしても、それはその人の目的に平穏が含まれていると解釈できます。幸福は目的や目標ではなく、状態という考え方です。

すべての目的が達成された状態が最高の幸福、いくつかの目的が達成されただけの状態は部分的幸福、何らかの行動により目的の達成に近付いたときは漸近的幸福。一方、すべての目的が達成不可能な状態が最高の不幸、いくつかの目的が達成不可能な状態は部分的不幸、何らかの行動により目的の達成が遠退いたときは漸近的不幸。

また、目的を持っていないときは、幸福でも不幸でもありません。

いかがでしょうか。

 

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