最近、西洋では環境活動家たちが美術館の絵画にペンキをかけたり、車道に座り込んで車の通行の邪魔をしている様子の動画をよく見ます。西洋人の彼らの行動には呆れてしまいますが、まだ日本ではあのようなバカなことを行う人たちは現れませんし、今後もまず現れることはないでしょう。

彼ら環境活動家の行動を見ればいかに西洋人は愚かな人々なのかと言う事がよく分かります。ヒヤリハットの法則と言うものがありますが、これは一つの大きな事故の前には数百のヒヤリやハットした経験が数多く存在しているのです。つまりあのような愚かな人々が現れたと言う事はその背後には彼らに近い程度の低い人たちがごまんと潜在していると考えなければなりません。

 

西洋では哲学が盛んですが彼ら環境活動家の愚かな行動から察してみれば西洋哲学を学んでもあまり役にも立たず賢くにもなれないと言うことがよく分かります。日本では哲学は盛んではありませんが、あのようなバカな行動が起きない分だけ日本社会の方がまだ賢い社会であると言えます。何千年もの歴史がある西洋哲学ですが、結果を見ればあの程度の結果しか示せないのが現実なのです。

一を聞いて十を知る者は賢いと言われます。西洋人のあれらのバカげた行動を見て「本当は西洋人はあまり賢くはないのでは?」と考え、そろそろ私たちも西洋を崇拝することは止めなければなりません。

 

欧米は個人主義であり日本はどちらかと言えば集団主義です。個人主義は私欲の為であり集団主義はみんなの為と言えます。私は絶対善とは「みんなの為」と見つけました。それは「私欲を抑えてみんなの為」と考え行うことなのです。その絶対善から見れば私欲は常に悪であり、みんなの為は常に善なのです。西洋の個人主義は悪であり日本の集団主義こそが善なのです。

悪の思想である個人主義ではよりよい社会は作れません。自由、自由と叫び、個人主義、私欲を求める西洋社会はやがて衰退するしかないのです。日本の集団主義こそが絶対善に近い思想であり日本こそが世界の模範となる社会を創ることが出来るのです。

 

それでは賢いとはいったい何なのでしょうか。賢いと言われる代表と言えばやはりノーベル賞でしょう。ノーベル賞を受賞した人たちはみな賢いと言われます。そして賢ければみんなが賞賛してくれるのです。何故称賛されるのかと言えばそれはやはり「みんなの為になるから」なのです。つまり賢いとは「みんなの為になること」なのです。みんなの為になる人が賢い人であり、みんなの為になる社会こそが賢い社会と言えるのです。

例えば東大を優秀な成績で卒業してエリート官僚になった人たちは賢い人たちなのでしょうか? 彼らの行う政策が国民みんなの為になっているでしょうか。現実は全くその逆です。エリート中のエリートと言われる財務官僚は自分たちの出世、天下りの為に国民を騙し自分たちに都合のよい増税ばかりを行い日本を数十年間も衰退させてきました。こう言う奴らは「賢い奴ら」なのではなく「バカな愚かな奴ら」と言わなければなりません。いくら勉強が出来てもみんなの為になれないならばそれは賢いとは言えないのです。世界のみんなの為、または国民みんなの為になる社会を創れる人たちこそが本当に賢い人と言えるのです。

 

要するに欧米人が愚かな行動をするのはやはり彼らは個人主義、自由主義思想の民族であり、いうならばそれは絶対善を知らないからなのです。絶対善さえ分かっていれば「それは本当にみんなの為になるのか?」とみんなで考えることが出来るのです。そして正しい事はみんなで決めなければならないのです。自分勝手にこれが正しいと決めつけてはならないのです。これだけでも分かればあのような西洋人の幼稚な行動も少なくなる事でしょう。やはりこの世界がより良くなるためには世界の人々が絶対善を本当に理解するしか方法はないのです。