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人は知性体であり、知性体は目的を持つことができます。目的からそれを実現するための手段を導き出すのは理性の働きである一方で、何を目的に持つかという選択は突き詰めれば理屈ではないので、感情の領分だと言わざるを得ません。なので何か問題を発見したときにそれを解決しようと心に決めるためには、つまり問題解決を目的に持つためには、感情を刺激することは有効だと考えられます。ここで言っている感情は、問題が生じたときの感情ですから、不平不満、怒り、悲しみなど、いわゆる負の感情です。

ひとたび理性がその問題解決を目的に設定してしまえば、原理的にはそれ以上の感情は無用なはずです。感情それ自体は目的から手段を導く役には立ちません。目的から手段を導けるのは理性です。つまり実際に問題を解決するのは理性ということです。いつまでも感情を刺激し続けるのは無駄であり、理性を正しく働かせるためにはならず、もしかすると有害でさえあるかもしれません。理性はその目的が強い感情によって設定されたことを記憶・認識さえしていれば、常に強い心で問題解決へ挑み続けることができるはずです。

なので、いつまでも感情を刺激し続けるのは、控えていただきたい! これは自分の心に対する呼び掛けであると共に、社会の声に対する呼び掛けでもあります。私やみんなの理性からの。

なお、蛇足になりますが、私はまだ目的と信念の概念どうしの違いと類似の詳細を十分には理解していません。ただ、信念と呼ばれるものは、おそらく先程述べたように、強い感情によって設定された目的であって、なおかつ理性がその感情を尊重しているものを言うのではないか、と朧げに思うのです。理性が尊重という感覚を持っているかも確信が持てないし、理性と感情が分離できない状態になっているようにも思えるし、なんだかはっきりしないのですが。
 

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「例外の無い規則は無い」という言葉があります。経験的には、確かにその通りです…。でも、ここで敢えて! 敢えて言いましょう。「例外のある規則は真の規則ではない」と。

規則は、個別の場合を列挙するのではなく、それらのすべての場合を統一的に表現するから規則としての価値があるのです。例外というのは、その統一的な規則にどうしても含めることができなかった特殊な場合のことです。本来なら統一的規則に含めたかったのです。

例外、すなわち特殊な場合を認めて良いなら、いっそのこと統一的規則など使わずに、すべて個別の場合分けで列挙しても良いわけです。でもそれでは規則としての価値がありません。なぜなら規則の文面が無駄に大きくなるからです。規則の価値は、その規則に含まれる個別の場合の全体を簡潔に記述できてこそあるのです。

と言ってもこれは、規則を理解すべき人の記憶容量が有限であるという都合の問題でしかありません。そうではなく、むしろ本質はこうです。

この世界のすべては物質でできており、物質は物理法則に従っています。すべての現象を統一的に理解できる完全な物理法則はまだ発見されていませんが、すべての物質がこのひとつの世界で矛盾無く存在しているということは、物質は完全に統一的な物理法則に支配されていると期待できます。特殊に見える現象があったとしても、それを含めて統一的な物理世界ですから、例外として扱うのではなく、その特殊な現象をも含めた一段上の統一的な法則があるはずなのです。

といったわけで、究極的には自然界の規則には例外は無いはず、そしてそれこそが唯一の真の規則なのです!

真のルールは物理法則のみ!」「すべては物質」「世界はひとつ」も参照してください。唯物論の統一的な思想を感じ取ってもらえると思いますv

 

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死んだらどうなる? という疑問に対して人間原理的アプローチを試みます!

まず、客観的には、人は生物です。生物は死ぬと崩壊し、二度と復活することはありません。むしろそれが死の定義とすら言えます。

一方、主観的には、人は意識です。主観的意識です。意識は…意識があるときだけ存在します(循環論法?w)。 私たちの意識は、少なくとも記憶のある限り、生まれたときから存在し、死ぬときまで存在します。時々眠りによって寸断されますが。生まれる前に意識があったのかどうかは、記憶が無いので分かりません。でも、無かったと断言もできません。記憶が無いだけかもしれないので。ただし、断言できないだけであって、あったとも言えません。ここで「あった」とか「無かった」とか断言すると神秘主義になってしまいます。

ともかく、それを逆手に取れば、ひょっとすると自分が死んだ後であっても、自分が再び意識を持つことがあるかもしれないと想像できるのです。もちろん、だとしても、記憶が連続している可能性は皆無だし、どんな別の存在になっているかも分かりません。自分を自分として意識できる点だけが同じであり、それ以外の意味では完全に他人(人ですらない)であると想像できます。ただ、意識があるとき、意識はある、というだけです。

自分が死んでから再び意識が戻るまで、宇宙が何度ビッグクランチとビッグバンを繰り返すか分かりませんが、その間はまったく気にする必要はありません。だって意識が無いんですから。そして人間原理によれば、次に自分が意識を持つときは、今回のこの世界のように、自分が意識を持つのに十分な環境があるはずです。もし環境が適切でなければ意識を持つ存在に生まれることはできませんから。

だから意識さえあれば良いと考えるなら、何も心配は要らないのです。そして意識が復活することが未来永劫無かったとしても、それはそれで問題ありません。意識が無いとき…意識は無いのですから。

といったわけで、人は、意識があるとき、記憶のある範囲だけ、考えていれば良いのです。と言うか、それしかできません。
 

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人は誠実であることが美徳とされています。多くの人は、ある程度誠実で、ある程度不誠実です。人がどんな場面で誠実でどんな場面で不誠実かは、人によって違います。それはそれで別に良いと思います。個々人の信念の問題ですから。

ところが、世の中にはおひとよしと呼ばれる人たちが存在して、おひとよしはどんな人に対しても、どんな状況でも誠実です。自分が誠実に対応していれば相手も誠実に対応してくれると信じ込んでいます。もっと非道いと、相手がどんなに不誠実でも自分だけは誠実で居ようという信念まで持っています。実際の現実社会では、困ったことに、不誠実な相手はおひとよしを便利な人だと解釈して、どんどん利用して来ます。そのため、おひとよしはどんどん疲弊して行くのです。

おひとよし自身の考え方は、自分さえ我慢すれば周りすべてがうまく行くと思っていて、ならば自分は我慢しよう、という自己犠牲の考え方です。

でも、人間関係は相手があってのことです。相手が不誠実であるのに自分が誠実であっても無意味です。相手が不誠実であったら自分も不誠実に対応する、そうやって自分を守ることがおひとよしには必要です。逆にそれが真に誠実なのです。

 

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道具には目的があると言われています。ハサミには紙を切るという目的が、鉛筆には紙に文字を描くという目的があると言われます。でも、客観的には、道具は自然界には無い特殊な形状・組成をしているだけで、他のすべての物体と同じただの物体です。人がその道具を見て解釈するから目的が認識されるだけであり、それらの目的は自然界からは認識されません。道具の目的と言うものは、言って見れば、人が抱く幻想に過ぎず、道具と呼ばれる物体に本来的に備わっているものでは無いのです。

とは言え、道具と呼ばれる物体は、自然界の他の物体に比べて、いわゆる目的を達成しやすいようにはできています。大き目の箱に紙とハサミを入れてシェイクすれば、紙が切れる確率はハサミ以外の物体を入れたときより大きいだろうし、箱に紙と鉛筆を入れてシェイクすれば、紙に何らかの形が描かれる確率は鉛筆以外の物体を入れたときより大きいでしょう。でも、これらの実験の結果は、人が道具に想定した目的の結果と言うには余りにも偶然過ぎます。道具の目的の達成は人が、つまり目的を認識した知性体が使わなければ発現しないのです。

ここで少し私なりの勝手な定義を展開しようと思います。道具とは知性体によって目的を投射された物体である、と。投射と言うのは、知性体側から見ると物体に目的が付与されているように見えるけれども、実際はその目的は知性体の頭の中にあるだけだ、と言うことです。さらに、道具は知性体が直接操作することで目的を達成しますが、一方で機械は動力さえ与えられれば知性体が直接操作しなくても自動で目的を達成するものである、と定義できます。

そうすると、知性体とは、他の物体や自己に目的を投射できる機械である、と定義できそうなのです! 知性体、目的、機械、が循環的に同時に定義されるのです。だから何だ…と言うわけですが、私としては、目的という自然界に存在しない概念を中心にして、主観というこれまた自然界に存在しない概念に近付きたいという探索なのです。

でもまだこれ以上は発展してないので、この辺でさようなら!

 

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にほんブログ村のテーマ「アンチ・スピリチュアル」を立ててみました!w にほんブログ村の哲学系カテゴリを眺めてもスピリチュアル系ばかり目に入って、これはちょっと…と思っていたのです。昨今のスピリチュアル系の流行りには目に余るものがありますからね、対抗勢力も結集した方が良いと思った次第です。

 

自分で立てておいて何ですが、気長に見守ろうと思いますv

 

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以前、理論物理学者のホーキングが何処かで「最も神に近い人」とか紹介されていたのをチラと見たことがあります。おそらく自然界の法則である物理学の最も深いところまで理解している人という意味なのだと思います。

「神に近い人」とはどんな人なのか、私が定義するなら、「主観と客観が一致している人」とするのが良いかと思います。私たちは知性体であり、理性と感性を駆使して世界を把握しようとします。その把握が実際の世界とより一致している方がより神に近いと考えるわけです。なぜなら、もし本物の神が居るとすれば、世界を完全に把握しているはずだからです。

主観と客観が完全に一致していると、客観的に実現していることを主観的にも把握していて、その2つが常に一致しています。逆に考えると、あたかも考えたことが実現するかのように錯覚できます。これが神が万能であることの解釈になり得るでしょう。

ところで、ある種の神秘主義者は内面を探求することで無我になり、同時に客観的世界の存在をも否定します。主観も無、客観も無なので、主観と客観が一致し、最も神に近くなったと解釈するのです。もっとも、主観の無と客観の無、無と無の比較は特異点になりはしないか、と疑問は残りますが。ともかくこの場合、理性も感性も働かせません。

別の神秘主義者は感覚で把握できる世界を世界のすべてだと解釈し、あるがままを受け入れることで、客観と主観の一致の達成を試みます。この場合、感覚は働かせますが、理性は働かせません。あるいは、理性の働きすら感覚的に解釈し、あるがままを受け入れます。あるがままを受け入れると言うのは、本質的には理性を麻痺させると言うことです。

以前にも述べましたが、私たち唯物論者は別の道を進みます。理性を働かせることにより世界の法則を発見し、客観の情報量を圧縮して主観に取り込みます。主観と客観が完全に一致する日はおそらく来ないと期待できますが、それでも少しずつ近付く道を歩むのです。

 

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今現在この世の中で正論が受け入れられない場面が多いのは、世の中のほとんどが邪論でできているからです。そして正論は正しいし、根拠があります。邪論でできている社会の仕組みに正論を挿入すると、そこから周り全体が間違っていることが明らかになって行きます。それでは古い社会の仕組みは崩壊してしまいます。なので旧体制側の人たちは正論を拒むのです。

本来、世界は正論で構築されるべきです。なぜなら正論は正しいからです。間違っているものではなく正しいものを選ぶべきです。

世の中のすべてが元々正論でできていれば、そこに正論を挿入することは何時でもうまく行きます。目的が一致している限り。逆に邪論を挿入する余地は無くなります。すばらしい!

そのためには一度、古い邪論の世界は滅ぶべき…なのですが、それはちょっと穏かではありませんねw 聞かなかったことにしてください。私たちには内心の自由があるので、したたかに行きましょう。

まずはすべての人たちが論理的な議論を上手にできる必要があります。現状では、どうやらそれも難しいようです。教育の改革も必要でしょう。

先は長いなー (遠い目

 

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この世界は科学者の言う通りにしかなりません。なぜなら、この世界はすべて物質でできており、科学者は物質の法則を知っているからです。もちろん科学者が知っている自然法則は完全なものではありませんが、世間のほとんどのことを説明するには十分です。科学者がこうなると言ったことはそうなりますし、科学者が不可能だと言うことは不可能です。また、科学者が分からないと言ったことは誰にも分かりません。もし科学者が言ったことが本当に外れたとしたら、それは新たな科学的発見であり、科学の発展の元となるすばらしいことです。まぁ世間でそのようなことが起こることは非常にまれなので、無視して良いということです。そういう意味で、この世界は科学者の言う通りにしかなりません。

 

そういうわけで、科学者が何か言ったときは、無視してはいけません。科学者は基本的に自分の研究にしか興味が無く、世間のことなどどーでもいーのですが、参考意見を聞かせてくれと頼まれれば科学的根拠に基いて予想や見解を述べることにもやぶさかではありません。意見を求めておいて、言われたことが自分に都合が悪いからといって無視しても、予想された結果は覆されません。自然は誤魔化しが効かないのです。真摯に受け止めましょう♪

 

偉い人にはそれが分からんのですよ。

 

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