よく出来た映画だと思う。ストリーは基本的には、史実ということだが、
イーストウッド監督は素材の選び方がいつも上手いなと感心させられる。
腐敗した警察の犠牲になっても、そこに泣き寝入りせず、一人の自立した母親として、権力の不条理に断固拒否の姿勢で戦い、最終的に警察の非を認めさせる過程を、物語を通して見てきた視聴者には、彼女が最後の最後まで息子を探し続けていたいうラストは、余計に胸に刺さるものがあった。
映画には描かれてはいないが、自身がどんどん歳を取る中、行方不明になってから時が止まってしまった、永遠に9歳である息子を探し続ける姿は残酷以外の何ものでもないのではないか。
もちろん子どもが無事に帰って来るのが一番だが、それが客観的に見て不可能であるのならば、誰かが息子は死んだのだと理解させてあげることが、彼女自身の幸せのためには必要だったのではないだろうか。
無責任に希望を持たせ、救う会だ何だと、理解者のふりをするよりも、そのほうが余程人間的な行為なのではないかと思えてならない。
妻に先立たれ、息子たちとも疎遠な元軍人のウォルトは、自動車工の仕事を引退して以来単調な生活を送っていた。そんなある日、愛車グラン・トリノが盗まれそうになったことをきっかけに、アジア系移民の少年タオと知り合う。やがて二人の間に芽生えた友情は、それぞれの人生を大きく変えていく。
人種差別的な思想を持ったウォルトが、隣人の移民家族との交流を通して、
孤独な心を癒されていく場面は、心温まるいい話だった。
しかし、物語に挿入された暴力には違和感があった。
クリント・イーストウッドの映画にはよくこの唐突な暴力が登場する。
最後の場面を見てもわかるように暴力を肯定的に描いているわけではない。
しかし、否定するため暴力であっても暴力の出し方が嫌悪感を抱かせるのだ。
ただの、チンピラがあそこまでするのだろうか。移民の少女があまりに痛々しすぎる。
暴力を否定するのに、暴力は必要だろうか?
物語は大半が、主人公に加えられる苛めの描写と、
同じく苛めを受けていたコジマと僕との交流に割かれている。
苛めの描写は凄惨とまではいかないが、まるで半永久的に続くのではないかと思わせる絶望感があり、
読み進めながら、このまま最後まで救いがなかったら、
読み終えた後、さぞや憂鬱な気持ちになるだろうなと思っていた。
最後に救いの手が差し伸べられていてひとまずはほっとした。
小説の中には色んな人間のエゴが描かれていたが、一番残酷なのは、
果たして誰のエゴなのだろうか?
主犯格の二ノ宮か?それとも、淡々と、苛める側になるのも苛められる側になるのもたまたまで、そこに理由などないと言い放つ百瀬か?
実は一番残酷なのはコジマなのではないかというのが私の感想だ。
物語の中で、彼女にだけ理由がある。
彼女は決して貧乏ではないのに汚れた制服を着て、汚い靴を履いている。
また、風呂にも入らず、物語後半では食事さえしていない。
彼女はそれを自らの意志で行っており、
それは母親に捨てられた父親との繋がりを忘れないためのしるしなのだという。
そして、彼女は僕のことを仲間だと言い、僕の目が好きだと告げる。
それは彼に大きな喜びを与えるが、同時に徐々に彼を不安にさせる。
物語の中で彼女だけが強い。彼が斜視が手術で治るかもしれないと伝えた時、
彼女は不快感を示す。そして続けて、自分が母親を一番許せないのは、
父親を可哀想と思い続けなかっことだと言う。
彼はその話をどのような気持ちで聞いていたのだろうか?
コジマは彼をどう見ていたのだろう?
仲間というよりも父親と同じような存在として捉えていたのではないか。
なぜなら彼の母親が斜視であることが知らされるのは物語の終盤であり、
コジマにはこの時点では知りようもない。
コジマは苛めにしても何にしてもありのまま受け入れると言うが、
その根底には相手への憐れみがありはしないだろうか。
自分だけが正しく相手は誤りに気づいていない可哀想な人たちという思いが。
もっと極端に言うならば、僕を可哀想と思っていたのではないか?
少なくとも彼を自分の解釈に勝手に当てはめていたことは間違いない。
彼にとってそれは、斜視かどうかは苛めに全く関係ないと言う百瀬よりもはるかに残酷なことではないか。
私はコジマの対極にあるのが彼の継母なのではないかと思う。
この物語が帯びで言うように善悪の根源を問うものであるとするならば、
また、人間の行為が善悪に分けられるとするならば、彼の継母にこそ、その可能性を見いだすことができるような気がする。
テレビに映った、連立政権合意書の社民党の福島党首の署名が、
まるで小学生のような幼い字だなと思ったら、さっそく週刊誌の見出しになっていて笑った。
それはどうでもいいのだが、本書を読むと村山さん自身が「めぐり合わせの人生」と言っていたように、
村山さん自身はそれほど望んだわけでもないのに、周りに担がれあれよあれよといつの間にか、
総理大臣にまでなってしまったのがよく分かる。そういう意味でたしかに人柄はいいのかもしれないが、
佐高信が、村山政権を過剰に評価しているのがなんとも違和感があった。
村山談話にしても戦後五十年の節目という意味があったのは間違いないが、
その後の内閣が、踏襲と言っておけばいいという免罪符に使われていないだろうか。
小泉などはその典型であろう。そこに本当の意味での反省の念などありはしない。
そもそも自社さ政権は果たしてこの国にとって良かったのか?
少なくとも、社会党が自民党と連立を組んでなし崩し的に、党方針を変更していったがために、
その後の衰退があったことは否定できないはずだ。
結論(といっても何かが解決するとかそういった類の答えは書いてないが…)が知りたい人は最終章だけ読めばいいと思う。
乱暴に要約すると、森氏がなぜ死刑に反対するのか、
それは加害者の命であろうが被害者の命であろうが人の生命は全てに優先する、何より尊いからということになる。
逆に藤井氏が死刑やむなしと考えるのは実際に被害者遺族がそれを望んでいるからということになる。
個人的には私は森さんの意見と同様で、一人の命が大切であると考えれば考えるほど、同時に死刑という殺人も否定せざる得ないという考えだ。
しかし、自分自身が家族を殺されたらどう思うという問いに対して、もしそうなれば当然恨む、もしかしたら犯人を殺害したいと思うかもしれない、しかし、現実には自分は違う、だとしたら第三者として、死刑を制度として冷静に捉えなければいけないという答えは被害者や、被害者に徹底的に寄り添う藤井氏のような人々の切実なる問いに答えたことにならないのではないか。
80%の人が死刑存置を選択する現状を集団心理や被害者感情に引きずられたポピュリズムと断ずるのは容易いが、
それでは犯人を殺して欲しいという被害者遺族や無残に殺された被害者本人の声なき叫びから巧妙に逃げていることにはならないだろうか。
被害者や被害者遺族の憎悪から目を反らしたり、顔を背けるのでなく真正面から受け止め、それでも死刑はいけないんだと訴えることができる本当の言葉が必要なのではないか。
藤井氏が指摘する通り、被害者は自らの力で少しずつ権利を獲得してきたのだと思う。それに対して行き過ぎた厳罰化であるとか、裁判官までが世論に引きずられ死刑判決を出してしまうことに危うさを感じるという主張はよくわかるのだけれども、
一方で血の通っていない主張のようにも受け取れる。
冒頭で藤井氏は森さんの言葉に負けていると言っているが、私が読み終わった感想はむしろ藤井氏の言葉の方が説得力がある。
それは多分二人のスタンスの違いからくるものかもしれない。
私が象徴的だなと思う場面がある。今の世論の方向性というか空気に対する捉え方で、藤井氏が地道にメディアに働きかけ、政治に対してロビーイングを繰り返してきたからこそ、ようやく吹いてきた風と肯定的に見ているのに対して、森氏が否定的に捉えている場面。
確かに森氏はことあるごとに社会の危機意識の高揚に警告を鳴らしてきた。
しかし、本書で方法論について僕にできることは撮ることと書くこと、片隅で唸ったり吠えたりするだけの弱虫だと述べている。
私は森氏の主張の方に賛同するわけなんだが、それでも藤井氏の方にシンパシーを感じてしまう。
相撲や格闘技に例えるなら当り負けしているのである。
森氏の言うとおり、死刑存置派の根拠はもはや応報感情だけだろう。
しかし、ここを崩さない限りこの国の死刑はなくならないのではないだろうか。
もちろ当事者でしかわからないことはあるだろう。それをわかったふりをするのは欺瞞だろう。
しかし、だからと言っていつまでも煩悶や逡巡していればそれでよしとなるのか?
あとがきで森氏は死刑廃止を主張し続けることにもう迷わないと述べている。
であるのならぱ、本人曰く書いたり撮ったりすることしかできないのであれば、みせて欲しい。
加害者に死んで詫びてほしいと思っている被害者遺族を突き動かす言葉を。
アマゾンの特集。本家アメリカのアマゾンはさらに進んでいて、
日本で言えば楽天市場が一緒になったような感じだろうか。
確かに、便利であり賢く利用していくべきだろう。
また、アメリカでは電子ブックがかなり普及しているらしく、
近いうち日本にも上陸してきそうだ。
しかし、日本で音楽配信のように、電子ブックが普及するかというと、
個人的には相当懐疑的な思いでいる。
少なくとも私はあんな無機質なもので、本を読みたいとは思わない。
遠藤作品の中では決して本流とは言えない作品ではあろう。
これでもかと「けじめ」という言葉が出てくるところが多少説教くさくはあるが、
父親が娘を捨ててた不倫相手の男性にあなあたは人間の悲しみがわからないというシーンなど、
遠藤周作らしさを存分に感じることができた。
本書の付録『美と破局』に寄せての中で、趙博氏が、
「作家になったと思い込んでいた彼が、再びジャーナリストの衣を着て現れた。
9・11後の状況下で「あえて戻ったんだな」と述べている。
一番新しい連載Ⅲ潜思録とⅥ宵の散策、Ⅶ蝶を読み比べてみると良く分かる。
辺見氏の表現はどんどん直接的になっている。
私はⅥやⅦのころのような辺見氏の表現の方が圧倒的に好きなのだが、
あのころにはまだあったような余裕が、
現在には許される状況ではないということなのだろうか?
辺見氏の警告にも似た文章を読んでいると、
人類は確実に破滅への道を歩んでいるなと背筋が寒くなる。
しかし、大半の人がそれに気づかないのか、気づかぬフリを決め込んでいる。
だからこそ、辺見氏の表現はどんどん直接てきになり鋭くなっているのではないだろうか。
もはや我々は辺見氏の言葉を借りるまでもなく「死ぬまで生きる」しか術はないのか。
ただ、その言葉の後に辺見氏は<それでも、「いま」を精一杯生きる>と
書き足していることを希望を込めてここに記しておきたい。
日本語を母国語としないであったり、派遣社員であったり、
そして今度はエリート商社マンだという。
いつから芥川賞は枕詞が必要になったのだろうか。
何が書かれているのかではなく、誰によって書かれたばかりが問われている。
広告に使い勝手のいいキャッチコピーばかりが求められている。
純文学が資本に蹂躙されている。
肝心の内容だが、露ほども面白くない。
誰のために何のために書かれた物語なのだろうか?
社会の閉塞感や虚無感、人間の不確かさなんかを表現したのだろうか。
サラリーマンが小説を書いてはいけない理由はない。
しかし、作品に魂が感じられなければ、
やはり作家とはそんな片手間でできるものなのかという謗りは免れない。









