ほんとにそれでいいのかなぁ | やってみたいな、をやってみる。の練習帳

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雨の日にその向こう側で息抜きしてるお日様まねてどうにもならないむずかしい事ひとまず横に置いてみる。
あたまをいったん空っぽにしてきおわず焦らずはなうたまじりにピンとくる方3秒以内に選んで進むその先でありたい未来が笑顔で手招きしているよ♪

 

 
 
甘いもんは甘いし
 
酸っぱいもんは酸っぱいし
 
 
きもちよいものは心地よく
 
ここち悪いならこれは嫌いと
 
ちゃんと感じていたいよな。
 
 
ちゃんと反応していたいよな。
 
 
 
 
本当は心もからだも喜んでないもの
喜んでると勘違いして知らぬ間に取り入れつづけてるとしたら・・
 
 
そんなのいやだ🙉🙈🙊
 
 
 
 
って
またなにをいいだしたかといえば
 
 
きょうも変わらぬ日常に
おはぎの会の日のあの感動の余韻まだすこし残ってて。
 
 
 
理論とかむずかしいことはよくわかんないけど
ただただ心地よかった「純正律の音」に想い馳せてた。
 
 
あの時間の心の静けさとからだの反応
ふしぎだなぁ〜あれはいったいなんだったんだろうなぁ〜
ってぼんやり考えながらもう一回聴いてみよう♪ってパソコン開けたら
 
 
これが出てきて
すっかりこっちに見入ってた。
 
 
 
そしたらこれもでてきて
心地よいときもちわるいは紙一重なんだと知った。
 
 
ここまで読んでくれた人もしいたら
 
この動画↑再生して AとBどっちがここちよいか照れぜひ聴いてみてー♪
 
 
 
 
きいてるうちにサイタがふと思い出したのは
子供のころからずっとふしぎに感じてたこと。
 
音楽に触れてとりはだたつあの感覚。
 
 
あれは「感動してる反応」とずっと思ってたけど
確かに感動はしてるんだろうけど、もしかすると
 
その中にひそむ不協和音のいびつさへの反応ということもありえないかな。
(どなたか真相をおしえてくださいませ猫あたま
 
 
 
 
心が震えるとか魂がゆさぶられるとか
どちらかというとつよめの動の感覚が=感動
って思っていたけど
 
おはぎの会したあの日のピアノの音からは
その「激しい動」の感覚がまったくなかったんだ。
 
 
心は1mmも波うつことなく、いたって静か
なのになみだだけ止まらない。
 
しーんって聞こえてきそうなほどの認識できないくらい深いところで
感情ときりはなされた何かが「ほっとした」っていってるみたいな
 
ぼんやりとじんわりとそんな感覚だったきがするようなしないような。
(なにいってるかじぶんでもよくわかんない泣き笑い
 
 
 
そんでふたたび、ふと思った。
 
 
今ってわたしたちの身の回りにあるものの多くが
(音楽にかぎらずたべものとか身につけるものとかあるありとあらゆるいろんなものが。)
不協和音を奏でてたりはしないだろかね。
 
 
酸っぱいより甘いを好む消費者の声が反映されて糖度もどんどん上がって
品種改良されたものが標準となって
 
酸味はどちらかといえばわるものあつかいされてたりして
そっちがあたりまになって感じ方がちょっとずつずれてって。
 
(品種改良がいけないといいたいわけではなく。大元が持ってる個性を忘れていくことへの弊害もありゃしないだろかと。)
 
 
平均とってつくられた便利の恩恵もありがたい一面もちろんあるけど
不便を排そうと手に入れたものならば、その代償は小さくないのかなと
 
 
ほんとうにそれでいいのかなぁ。と、おもったりもするうーん
 
 
 
そこに生まれる偏りがつくりだす不協和音をしらずしらずで受け入れてるうちにたとえばで
レモンは甘いくだものであるという認識が標準になったとしたら。。
 
 
からあげもあまくなる、、
そんなのいやだ🙉🙈🙊
 
 
 
 
純粋で自然なものも
平均とって人の手が加えられたものも
 
音楽も食べ物も、みのまわりのすべてに対して
ありのままにありのままで反応できて
 
ここちよさとここちわるさはいつだってとなりあわせだからこそ面白がっていたいねって

でものみこまれないように目と耳ちゃんとこらしていたいよねって
サイタはぼんやりそうおもふ。

 

 

クローバー

 

 

きょうもきのうより。

今がさっきより。

 

ほっとするひととき積み重なることで

 

みんなとみんなの大切なひとの周りが

「大丈夫」でつつまれますように。

 

 

 
 
 

 

きょうもあしたもあさってもそれぞれにとっての一期一会が
すてきなものであふれますようにクローバー