ある脳性麻痺の若者が手間暇かけてコップで水を飲んでいた。それを見ていた人が「頑張ってますね」と声をかけた。励ましのつもりだったが、言われた彼は困ったような顔をして「いや、僕は頑張っていない。ただ水を飲んでいるだけです」と答えた。
彼にとって当たり前のことで、普通の人が一気に水を飲むのと同じ感覚なのだ。私は行動障がいの息子の様子を知った人から「お父さんも大変ですね」と言われてきたが、これが普通で日常で当たり前。脳性麻痺の若者もそれと同じだと思う。
私は声をかけてくれた人には悪気はないし、むしろ好意的に応援してくれてると善意に受け止め「そうなんですよ、お気遣い、有難うございます」と応えることにしている。同調してそう言わないと相手も気まずくなるだろうと思うからだ。
健常者は無意識に「障がい者は大変だ」との気持ちがあるのではと感じてる。障がい者や家族の懸命に見える行為でも、悪戦苦闘はしているが、それが当たり前の日常なのです。
それを周囲の人たちが「当たり前」と思えるようになれば、健常者とハンデイを持っている人との距離が縮まって、理解も深まりお互いに風通しもよくなるのではと思います。
知的障がいや自閉症などのハンデイを持っていても、普通にレストランなどに食事にも行くし、動物園や遊園地に行ったり、ドライブや、泊りがけで旅行にも行ったり、それなりに楽しく過ごしています。
それでも店員の対応次第で、自閉症の息子は歓迎されてないと思うことがあるが、私の考え過ぎと思って我慢している。ところで、下の画像を見て下さい。左のメニューでオーダーして本を読んで待つ長男に出されたメロンソーダが右。少なくない?メニューと比べたら半分だよね、またか、と我慢できずにスマホで撮りました。
(メニューの写真) (出されたのが、これです)
息子のお気に入りで常連になった店で、普段はメニュー通り出るのだが、あの男性店員に限って毎回なので意図的だと感じ「店長に画像見せて文句を言おう、あの男には敵対心を感じる」と妻に言うと「考え過ぎよ、次から行きにくくなるから、やめてよね」と止められた。言われてみれば、私は長男のこととなると過敏で、確かに考え過ぎになってしまうのだが・・・
それは自閉症に理解のない人からの心無い言葉などで嫌な思いもしてきた悲しい定めだと思って自覚している。特に自閉症は外見ではわからないので誤解が多く説明して理解を求めると「他のお客様の迷惑になりますので」は、ましな方で「はあぁ?」と返されたり「親のしつけが悪いのでは?」もあった。
被害者意識は持つまい、と心掛けてはいるが、やりきれない。それでも穏便に過ごすためにも我慢するしかなかった。
だが嬉しいこともある。「いつも有難う」とか「またのご利用をお待ちしてます」などと笑顔で対応の方が以前より多くなったことだ。それだけ障がい者や自閉症に関して理解が広がってきたと有難く思っています。
利用した店で「親戚の子が自閉症なので、同じだと思ってました。応援します。頑張ってくださいね」などと言われると、きょうは、なんていい日なんだ、と思うほど元気になれるものです。
人という文字は二本の線が支え合って成り立つ漢字で、人はお互いに支え合って成り立つ、ということなんですね。
障がい者、健常者だけではなく、大企業と下請け、上司と部下も、立場にとらわれ過ぎず、人として支え合って生きていける世の中であって欲しいと思った次第です。
これは特別な能力も必要なく、労力も、金もかからず、私も含めた人間、その人次第だと思うのですがね。難しいかな・・