「感情」の在り方 | スピリチュアルメッセンジャー Kurumiのブログ

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大切なメッセージをあなたに。

先日「覚醒」と「自己統合」と言う話を書きましたが、決っして私自身が「ちゃんと実践出来ている。」と言うわけでは、ありません。

私自身も「人間」なので、try and error の手探り状態でも、あります。(なんでも出来て、何でも知っていたら、面白みに欠けると、思うし🤣🤣🤣)

「人間」である事の1番面倒な事は、気分とか感情があると言う事。でも、この気分だとか、感情が、この「人生ゲーム」をする上でのコンパスであり、バロメーターでもあります。なので、上手に使いこなせれば、結構良いツールなのですが、振り回されると、結構やっかいです。体調や月の満ち欠けにさえ、影響されますから。😅😅😅

起こってくる「感情」と言うのは、あくまで自分の経験から来る「事象」へのリアクション。

感情が湧き起こってくるのは、対象物から受け取る情報を、自分の中にあるフィルターを通して、自分の中にあるスイッチがonになって起こるリアクション。

あくまで、自分本位である。

危機回避であったり、モチベーションであったりと、アンテナであり、コンパスであり、バロメーターにもなり得る。

しかし、間違えてはいけないのは「感情」と、「感覚」は、違うと言う事。

「感覚」と言うのは、自主性は無く、自然に起こり得る事。「嫌な感じがする。」とか「これは、良いかも」と言った物で、そこに主観は入らない。

意味や理由づけは必要なく「わからないけど、そうだ。」と言えるのが感覚。本来、これがアンテナであり、コンパスであり、バロメーターとなる。

で「感情」は、経験を通して感じた自分の主観である。だから、そこには平等性は無く、同じ「感情」である喜怒哀楽であったとしても、同じ事象で同じ様に、同じ度合いで、みんなが感じる事は無い。

あくまでも、自分の中の「事象」に対するリアクションでしかないのです。

なので、何かを決めたり、何かを選ぶ時に自分の「感覚」を研ぎ澄ませて、信じる事は、とても重要ですが、もし、それを「感情」に任せてしまった場合「事象」は歪められ、真実を見る事が出来なくなります。

例えると、人に対して好意を持って見た時、その人への期待値は上がり、その人の本質が見えず、「その人」では無く自分の理想を重ね合わせる事になります。逆を言えば、好きだからこそ、自分の期待や理想と違う、もしくは「正しさ」から外れてしまうと、そこに「落胆」や「怒り」が、発生します。

相手の言動が、トリガーにはなるのですが、あくまでも自分本位な思い込みによるリアクションでしかありません。

「事象」は一つなのに、どこから、どの角度で、誰の立場でその「事象」を見るか?によって「現実」は変わって来ます。

大抵の場合、自分の思い通りにならない事は、怒れるし、悲しくなってしまいます。

「なんで、私の言う事を聞いてくれないの?」

「なんで、私の事を認めてくれないの?」

「なんで、私の気持ちを満たしてくれないの?

「なんで、私の思い通りに動いてくれないの?」

「それは、正しくは無いのに。」

「私が、間違っているのだろうか?」

「相手に嫌われているんじゃ無いか?」

など、など。

人間の欲求である

「愛されたい」「認められた」「わかって欲しい」が、根底にあるから、そう言う感情が出て来てしまいます。これは、自分を知る為、自分が生きていくため、サバイバルモードのツールのひとつでもあるのですが。

しかし、その「事象」の現実は、全く「感情」とは関係の無い、違う所にあるかもしれません。


例えば、

「連絡が、来ない。」と言う事象について

考えられる要因としては、

1、相手とあなたのご縁が切れた。

(嫌われた。も、これに入ります。もしくは、この人とのステージが変わった。)

2、相手が、単に忙しい。

3、相手が、そんなにこまめな人じゃ無い。

4、相手と、話す必要がない。

5、今は、自分と対話して、自分で考える必要がある。

6、相手が精神的に余裕が無い。


などなど。

全てが、自分が原因で「事象」が起きている訳では無いけれど、リアクションとしてある種の「感情」と言う物が、自分の経験(初期設定の時点でプログラムして来た過去世の経験も含め)を基準にして生まれて来る。

しかし、起こった事実はどうであれ、自分が抱いた感情が「自分の現実」を作り出し、「事象」を歪めてしまう事もある事を、知っている事はとても重要な事である。

「人間」なので「感情」を持つ事は、初期設定の時点で既に組み込まれたツールであり、その程度は人によって様々である。「感情」は、自分を知るためのバロメーターの様な物である。

では、自分がある種の「感情」を抱くトリガーは、常に変わらず、無くなったりしないのか?

答えは「いいえ。」

何度も言う様に、トリガーは自分の経験による物。

例えば

父親に酷い事を、言われた。もしくは、された。

その事によって、男性もしくは、父親の様な人に、怒りもしくは恐れを感じる。

本来、行動をしたのは、父親であるのにも関わらず。


しかし、仮に父親が、その両親もしくは祖父母に、

同じ様な事を言われ、されながら、それを「しつけ」もしくは「教育」と言う名目で育てられていたらどうだろう?

父親は、そう育てられて来た。

父親は、それを「しつけ」であり「教育」だと教えられ、信じて来た。

父親は、それ以外の親子のコミュニケーション方法を知らない。

父親は、それを「正しい」と、思っている。


そう仮定した場合、父親は、自分が演じ得る「父親」を、こなしているだけとなる。


しかし「自分の現実」の中では「酷い事を言われ、された。」もしくは「父親に嫌われている。愛されなかった。」と言う現実が、成り立つ。しかし、あくまで「自分の現実」である。

時代背景上、みんなが同じ扱いを受けていたならば、それは「酷い事」にはならず、怒りも、悲しみも感じなかっただろう。「愛されなかった」も、愛情表現もまちまちだし、時としては「愛する。」と言う事を、表現出来ない、と言う可能、父親自身が「愛された。」と言う経験を知らなければ、それを体現するのは、難しい。

「酷い事を言われた、された。」と言う現実が、無い。とか、「そう言う事をする父親は、悪くない。」とか言っているのでは無くて、怒っても良いし、悲しんでも良いと思う。でも、自分視点からだけでは無く、違う視点から見る事によって、それが「現実」と思って大事に大事に持ち越して来た「怒り」や「悲しみ」の感情を、手放しても良いのでは無いか?と、言う事。人を許すと言うより、手放して自分が自由になると言う事。


どうしても「感情」が変わらないのであれば

そのトリガーになり得る「現実」を変えれば良い。

相手に事情を聞く。

相手と距離を取る。

自分の中で「現実」を書き換える。などなど。


「感情」は、やっかいな物だけれど、不必要な物では無い。自分を知る為に大事なツールです。

なので、見ないふりや、無い事にはせずに、しっかり抱きしめて、なぜその「感情」が生まれたのか?を、知る事が「自己統合」にとっても、とても必要なステップだと思います。

「感情」を客観的に見れる様になると、世の中がどの様に自分にとって動いているか?も、見える様になって来るでしょう?


最初、書こうと思っていた事と、違う事が出て来たので、そのまま書きました。修正無く書いていますので、意味不明になっているかも?

まっ、覚え書きみたいな物なので、好きな様に受け取って頂けたら嬉しいです。💕💕💕🤣🤣🤣


今日、書こうと思った事は、また次回🤣🤣🤣