自分以外の「感情」の在り方 | スピリチュアルメッセンジャー Kurumiのブログ

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大切なメッセージをあなたに。

昨日書いた「感情の在り方」は、主に自分の「感情の在り方」。

「感情」と言うのは、自分の経験と情報に基づく「事象」へのリアクション。

あくまでも、主観的で、自分のフィルターを通して、スイッチが入る。と、昨日書いたわけですが、

では、自分以外の「感情の在り方」は、

どうなんでしょう?

自分以外の「感情」を見る時とは、

1、自分の言動がトリガーになっている場合

相手の話している事を、きちんと聞いて、受け取り、把握して、それに準じて行動をする。

共感する。褒める。認める。言う事に従う。

などは、人を喜ばせたり、嬉しがらせたり、楽しませたりする。

逆に

言われた事を、聞いてない、やってない。

相手の言われた事に反発をする。拒否する。訂正する。と、怒れもするし、悲しくもなる。


2、自分以外の人の言動、存在が、トリガーになっている場合。

これは、自分の知らない所で既に他の人によってトリガーは引かれ、そのリアクションを見ている。

この場合、昨日も書いた様に、父親と嫌な経験をした場合、父親以外であっても「男性」もしくは「父親の様な人」にリアクションを、起こす事がある。

自分の知らない内に、その「男性」もしくは「父親の様な人」のカテゴリーに入っていて、そのリアクションを見ている事もある。


3、自分の憶測による物

その人は怒ってもいない、ただ疲れているだけなのに、自分の行動に不安が生じると「その人は、怒っているのでは無いか?」もしくは「怒っているに違いない。」と、憶測して相手の「感情」を見極めようとしてしまう。

もしくは、自分の「感情」のトリガーとなる事象や言動に、その人も同じ様に「感情」のリアクションを起こす。と言う憶測。


何度も言うけれど「感情」と言うのは、主観であり、経験と情報、憶測から来るリアクションである。


人が、今どう言う「感情」を持っているか?は、

その人の言動で推測、憶測をする事になる。

笑っていれば「嬉しい」や「楽しい」だし、

泣いていれば「感動している」「悲しい」

言葉や態度が、冷たくなったり、声を荒げていたりすれば、それは「怒っている。」と、取るかもしれない。

しかし、人は同じレベルで、同じ視点から物事を見るわけでも無く、理解し、認めるわけではない。

だから

「何が面白いんだか?」

「何がそんなに良いのだか?」

「なんで、わかってくれないの?」

「なんで怒っているの?」などの質問が出て来てしまいます。


ここで、もっとも基本的な質問として「感情と言うのは、なんであって、なぜ必要なのか?」


「感情」とは「自分」を知る為のツールである。

と、昨日書きましたが、他者に対しても同じです。

「自分」と言う存在を、理解し、受け止めて貰う為、そして「他者」と言う存在を、知り、理解し、受け止める為のツールのひとつ。


「感情表現の乏しい人は、何を考えているか?わからない。」と言われるくらい、自分が意識して無くても、外部に情報を発信しています。

それと同様に、他者からの情報を得ています。

「私、こんな事が好きですよ。」

「私、こんな事して貰ったりすると嬉しいですよ。」

「それは、嫌だからしないでくださいね」

などなど。

だから、「機嫌」や「顔色」を、伺うのです。

しかし「感情」は、リアクションであって、考えてその「感情」になろうとしているわけではありませんし、リアクションとなるトリガーは、あくまでも「超個人的」な事なので、その人の「感情」を、本当に理解し、受け入れる事が出来るか?は、難しい所です。

でみ、ここで「わからないし、違うし。」と突き放してしまえば、その人を理解する機会を、無くす事になるでしょう。

コミュニケーションを取る事、相手を知ろうとする事は、そのまま「自分」を知る事に他ありません。

「感情」は、リアクションです。相手があるから、反応します。何に対して反応しているか?を知る事で「自分」が見えてきます。

「自分」が、ちゃんと見えて来ると、他者の「感情」に対しても冷静に、客観的に、見る事が出来る様になるでしょう。

理解したり、共感したりは出来なかったとしても、

「伝えたい何かがあるのだ。」と言う事を知った上で、受け入れて行けば「自分」と言う器は大きくなり、他者との境目は薄くなって行くでしょう。


また、朝からダラダラと書いてしまいましたが、覚え書きと言う事で。🤣🤣🤣