角偉三郎は合鹿椀と出会うことで、それまでのもやもやを払拭し
自分と漆の役割について、一点の曇りなく悟ることとなる。
それから角偉三郎は、取りつかれたように、
椀木地をキャンバスにして 漆で自由奔放に描いていく。
伝統的なやりかたに背を向け、生き物である漆と対話しながらの創作活動。
手に漆をつけ椀木地にこすりつける、
漆がたれてながれていくままにする、
漆が縮んでもOK、
ベンガラ漆を手に付け椀にしぶきをかける、
布着せをしない、下地もしない、
時には周囲から冷やかな目を向けられることもあった。
それでも自分との葛藤をしながらもひたすら椀を作り続けた。
角偉三郎の迷いない強い創作意欲は、
弛まぬ努力の結果としての苦悩を自分で克服しているからこそであろう。
私は思う。
「先ず伝統技術ありき」ではない、「先ず漆ありき」であると。
漆は自分を受け入れてくれるか、漆と真剣に向き合わなくてはいけない。
そして自分が漆についてどう考え、どう使っていくかを考えていかなくてはいけない。
そうすることで、その人、その人、独自の漆の作品が出来る上がるのではないだろうか。
伝統技術に固執し縛られれば、みんな同じものしか作れなくなる。
伝統的なルールはあった方が楽だ。
ルールを守れば、みんな安心して評価してくれる。
でもそれって本当に伝統のために良いことなのだろうか。
だんだん、作り手も、使い手も壁にぶち当たるだろう。
そもそも伝統的ルールは、人間が時間をかけて作り出したものだ。
絶対的存在である何かが、唯一無二のものとして作ったものではない。
各産地の技法に縛られる必要はない。
各産地の技法は、昔のその時代のその地方の状況の中で成立したものだ。
今はまったくちがう状況が目の前に存在している。
それなのに、昔の技術に固執するのはおかしい。
もちろん、全てを捨てよ、と言っているのではない。
先ずは漆と対話することが必要なのだ。
伝統的なルールに従う前に、
先ず目の前にある漆について高い抽象度で思索する。
そうすれば新しい漆の可能性がひらけてくると思う。