心の旅 ー自然と町並みの美しさを求めてー -68ページ目

心の旅 ー自然と町並みの美しさを求めてー

あちらこちらを楽しく旅してみたいと思っています。

趣味の写真を中心として旅先情報などをお届けします。

今年はあちこちの桜を撮りまくろうと楽しみにしていましたが、

風邪を引いてダウン!

熱はないものの寒気と鼻水と喉の痛み、薬を飲んでもさっぱり治らないで、

半月間、寝たり、起きたり!

おかげで好きなプールも半月ほどお休みしました。

このブログの休み勝ちとなりました。

 

やっと、治りかけてきたので昨日、千葉公園にでかけて桜を撮影してきました。

まだまだ、満開でした。

 

それから、絶不調ながら、鼻水をすすりながら、無理して撮影したあちこちの桜も披露します。

  

千葉公園 <=クリック

千葉公園の桜(4月9日撮影)

  

身延山 <=クリック

身延山(4月6日撮影)

 

大法師公園 <=クリック

大法師公園(長野県、4月6日撮影)

  

千鳥が淵 <=クリック

千鳥が淵(3月29日撮影)

  

中山法華経寺 <=クリック

中山法華経寺(4月3日撮影)

  

鎌倉 <=クリック

鎌倉浄智寺(4月2日撮影)

谷根千の桜を撮影してきました。

下記のURLをご覧ください。

  

http://www.imagegateway.net/a?i=20wDMLHnTo

谷根千は「やねせん」と読みます。

谷中、根津、千駄木界隈の地域を指します。

東京大空襲でも比較的被害が少なく、江戸時代、明治時代の建物が残っています。

レトロでモダンな谷根千、散歩を楽しむことができます。

  

私が歩いたコースを順に列挙します。

  

JR日暮里ーースタート

本行寺

経王寺

養福寺

富士見坂

諏訪神社

延命寺

朝倉彫塑館

観音寺

功徳林寺

天王寺(観応寺)

天王寺五重の塔跡

下町風俗資料館

大雄寺

一乗寺

大名時計博物館

三崎坂

全生庵

大円寺

蛍坂

天心公園

宗林寺

夕焼けだんだん

七面坂

谷中銀座

だんご坂

森鴎外記念館

おばけだんだん

かいぼう坂

根津神社

おばけ階段

異人坂

根津駅(地下鉄千代田線)--終点



東京・有明の東京国際展示場(東京ビッグサイト)において、
写真関連製品の総合展示会“フォト・イメージング・エキスポ2006”が開幕されています。

でも、26日、つまり今日が最終日です。
 

平たく言えば、カメラの各社の新製品のお披露目会です。

欲しいカメラばかり、日進月歩ですね。

    

 モデルさんの準備の様子を撮影してきました。

直接では、失礼なので、鏡に映ったモデルさんです。

  

モデルさん <-クリック

自作の小説です。

遊び心で書いています。

  

3章 沈む船

 座礁の衝撃で艦底に亀裂が入り、艦に海水がなだれ込んできた。海水の浸水を皆で食い止めようとしたが無駄な努力であった。沈没も時間の問題になってきた。艦長から海に飛び込んで岸まで泳ぎ着くように指令がでた。岸まではかなりの距離がある。この荒れた海では泳ぎの達人でも岸まで泳ぎつくのは至難の業であることは明白であった。しかし、このまま船に留まることは座して死を迎えることと同じであった。船長のアリ・ベイ海軍大佐と使節団団長のオスマン・パシャ殿下は、このまま船に留まり、船を運命をともにされる決心をされたようであった。

 ムラト・ホジャは二人に敬礼すると荒れる海に飛びこんでいった。イズミールの海辺で育った彼は、子供の頃から泳ぎには自信があった。何時間でも泳げる体力ももっていた。だが、この海は彼が経験していた海とは違っていた。彼の体は何度も波浪に高く舞い上げられ、そして波の谷間に叩きつけられた。

 ムラオ・ホジャはその時、死神の微かな臭いを嗅いだ。死神がそっと手を差し出してきたのである。それは、苦痛と絶望にあえぐ彼にとって耐え難い誘惑であった。

 子供の頃の思い出が走馬灯のように彼の脳裏をよぎった。優しい母、一緒に遊んでくれた父、可愛い妹のハンナが彼の目の前で踊っていた。「ごめんなさい、先に逝きます。」脳裏に浮かんだ両親に彼は叫んだ、両親の顔は悲しみに歪んだ。「あきらめないで! 死なないで!」妹のハンナが瞼の中で泣きながら叫んでいた。やがて、彼は気を失っていった。


自作の小説です。

遊び心で書いています。


2章 荒れる海

 士官のムラト・ホジャは甲板から荒れる海を眺めていた。思えばトルコを離れてから長い日々だった。1887(明治20)年に日本の皇族小松宮殿下が関係改善を目的としてオスマントルコを訪問した。その返礼使節団としてオスマン・パシャ殿下を司令官とし、使節団と海軍乗員とを合わせて656名を乗せたフリゲート艦エルトゥールル号は18897月にトルコを出発した。

 約11ヶ月をかけてエルトゥールル号は18906月に横浜港に入港し、613日に司令官オスマン・パシャ殿下はオスマントルコ皇帝の親書を明治天皇に奉呈した。

 その当時、日本とトルコは欧米との不平等条約にともに悩んでいた。

明治政府は、ともに同じ悩みを持つ国として、また東洋の血を引く国としてオスマントルコとの友好の絆を高めるために連日のように使節団をもてなした。

 また、オスマン・パシャ殿下は鹿鳴館に滞在して、そこに日本の皇族、大臣などをしきりに招待して歓談した。両国は今後、力を合わせて近代化に取り組む約束を交わした。
 一行は915日に横浜港を出発して神戸港に向かった。その日の夜9時ころエルトゥールル号は紀伊半島串本大島の樫野崎沖合に差し掛かった。おりしも強い台風が紀伊半島をとおりかかっていた。

 トルコの船員たちは、あいにく台風にはまったく未経験であった。どんなに海が荒れても軍艦が沈むとは思いもよらなかったのである。

 ムラト・ホジャもその一人だった。しかし、この台風は彼が経験した大風のどれよりも手強かった。

 船は木の葉のように揺れ、波は甲板を大河のように流れていった。まず、舵が壊れ、次にエンジンが損壊した。そのときエンジン近くにいた機関士8名が即死するという痛ましい事故が発生した。
 ムラト・ホジャは司令塔の中に飛び込んでいった。指令塔には艦長のアリ・ベイ海軍大佐が側近の幕僚に取り囲まれて操船に必死になっていた。しかし、押し寄せる波と吹きつける風にほとんど操船不能の状態になっていた。
 船は風で岸へ岸へと吹き寄せられていった。余りに岸に近づくのは危険だった。「ドン!ドン!」と船底で鈍い音がした。エルトゥールル号は樫野崎の岩礁に激突したのである。その岩礁は日本の水夫たちが魔の岩礁として恐れていたものであった。


小説をいつか書いてみたいと思っていました。

遊びで連載小説を書いてみます。ご照覧ください。


1章 青い海

 「静子、もう休もうか。」と父の三郎が声をかけた。静子は額から滴りお汁汗を拭きながら「ええ」と答えて腰を下ろした。

 山の急斜面の段々畑から足元を見ると真夏の太陽に反射してきらきら光る家々の瓦の向こうには蒼い海が見えた。

 19歳の静子は海が好きだった。紀伊半島串本の大島で農家の長女として生まれた静子は小さなときから弟の太郎の面倒を見たり、父や母を助けて畑仕事に忙しかった。けれども、静子は早朝や夕方、暇なときはよく海の浜辺に出かけた。砂浜に間断なく押し寄せる波の音、磯の香り、そのすべてが静子は好きだった。

 「私は、いつの日か、この海を渡って異国に旅してみたい。」そういう静子の願いは何時か熱病のように静子の体の中に巣食っていった。

 今も、畑仕事の手を休めて休息しながら、静子ははるかに見える蒼い海にうっとりと見とれていた。海の色は絶え間なく変わる。朝の海、昼の海、夕方の海、夜の海、その時々にまた、季節に合わせて海は装いを新たにして静子の前に現れてくる。

 「静子を早く、嫁に出さなきゃ。」母と父が小声で話しているるのが静子の耳に入った。

時は明治23年であった。和歌山県串本では、当時女の子は16,7歳で嫁にいくのが慣わしであった。静子はもう、19歳になっていた。いろいろな人たちが静子に縁談をもちかけてきたが、そのいずれも静子の気に染まなかった。

 静子は、しかし父や母の心配をもっともだと思っていた。いつまでもわがままを通していては、いけない、と静子は自分に言い聞かせていた。

千葉市のお稲毛海岸駅の近くのジャスコの前に河津桜が20本ほどあります。

今日、3月12日で5分咲きというところです。

毎年、この花が咲くと春が近いなと実感します。

  

河津桜

河津桜r

  

河津桜

成田の梅の開花も今年は、遅れてやっと今頃、見ごろになってきました。

  

成田の町はうなぎ屋がなぜか、沢山あります。

私の昼食もうなぎ丼!!

  

お土産は、羊羹、これが成田のお土産の定番です。

  

成田山

  

成田山

東京の湯島天神の梅がいま(3月9日)、満開です。

例年行われる湯島天神の梅祭りは、梅が満開にならない前に終わってしまいました。

今年は、梅の開花が遅れたためですね。

湯島天神には、願い事を書いた絵札が沢山飾ってあります。大部分は自分の大学の合格のお願いですがね。恋人の就職を懸命にお願いしている乙女の文には、私も思わず、ジーンとしてきました。

甘酒は300円、酒饅頭は50円と比較的廉価な飲み物、食べものでした。

  

写真はクリックすると大きくなります。

  

湯島天神

  

湯島天神

  

湯島

  

湯島天神

  


先日、ブログで荒川選手の優勝時の日章旗をかかげたウイニングランがNHKの中継で映っていなかったという苦情をこのブログに載せましたが、誤解に基づくものでした。

  

NHKのホームページのご意見のところに私が書いた苦情に対して

NHKから丁重な説明のメールをいただきました。

長いメールなので、一部のみ掲載します。

  

御指摘の「荒川選手が日の丸を掲げて滑ったウィニングランがNHKの中継に映っていなかった」という点ですが、お答えにあたり、五輪中継の仕組みを簡単にご説明します。
  

オリンピックでは、大会主催者がテレビの中継映像を制作して世界各局の放送機関に配信します。これを「国際信号」と言います。各局は、この国際信号に自国語の実況・解説をミックスして放送をします。こうした方法は、世界的に人気の高いスポーツ大会では広く採用されています。日本の放送では、NHKと民放が共同チームを作って現地で実況・解説を付加し、それを各局が使って放送しました。

今回、荒川選手が日の丸を持ってウィニングランをしたのは表彰式の終了後でしたが、生中継の中では、この模様をお伝えできませんでした。それは、競技や表彰式そのものが終了したため、おおもとの国際信号の配信が終わったためです。NHKでは国際信号の最後までずっと放送しており、この模様が入っていれば当然放送しています。

生中継の中ではお伝えできませんでしたが、NHKでは、当日24日の正午のニュースで荒川選手が日の丸を観客席に掲げて滑る姿をお伝えしましたし、27日に放送した「ニュース10」の中のトリノ五輪ハイライトのコーナーでも荒川選手が国旗を掲げて滑る姿をお伝えしました。またNHKでは、当日の午後7時からの「ニュース7」など荒川選手の金メダル獲得を伝えるニュースで、荒川選手が日の丸の旗を手に関係者と喜んでいる映像も放送しており、日の丸の映像を放送しなかったということは全くありませんので、ご理解ください。