自作の小説です。
遊び心で書いています。
第2章 荒れる海
士官のムラト・ホジャは甲板から荒れる海を眺めていた。思えばトルコを離れてから長い日々だった。1887(明治20)年に日本の皇族小松宮殿下が関係改善を目的としてオスマントルコを訪問した。その返礼使節団としてオスマン・パシャ殿下を司令官とし、使節団と海軍乗員とを合わせて656名を乗せたフリゲート艦エルトゥールル号は1889年7月にトルコを出発した。
約11ヶ月をかけてエルトゥールル号は1890年6月に横浜港に入港し、6月13日に司令官オスマン・パシャ殿下はオスマントルコ皇帝の親書を明治天皇に奉呈した。
その当時、日本とトルコは欧米との不平等条約にともに悩んでいた。
明治政府は、ともに同じ悩みを持つ国として、また東洋の血を引く国としてオスマントルコとの友好の絆を高めるために連日のように使節団をもてなした。
また、オスマン・パシャ殿下は鹿鳴館に滞在して、そこに日本の皇族、大臣などをしきりに招待して歓談した。両国は今後、力を合わせて近代化に取り組む約束を交わした。
一行は9月15日に横浜港を出発して神戸港に向かった。その日の夜9時ころエルトゥールル号は紀伊半島串本大島の樫野崎沖合に差し掛かった。おりしも強い台風が紀伊半島をとおりかかっていた。
トルコの船員たちは、あいにく台風にはまったく未経験であった。どんなに海が荒れても軍艦が沈むとは思いもよらなかったのである。
ムラト・ホジャもその一人だった。しかし、この台風は彼が経験した大風のどれよりも手強かった。
船は木の葉のように揺れ、波は甲板を大河のように流れていった。まず、舵が壊れ、次にエンジンが損壊した。そのときエンジン近くにいた機関士8名が即死するという痛ましい事故が発生した。
ムラト・ホジャは司令塔の中に飛び込んでいった。指令塔には艦長のアリ・ベイ海軍大佐が側近の幕僚に取り囲まれて操船に必死になっていた。しかし、押し寄せる波と吹きつける風にほとんど操船不能の状態になっていた。
船は風で岸へ岸へと吹き寄せられていった。余りに岸に近づくのは危険だった。「ドン!ドン!」と船底で鈍い音がした。エルトゥールル号は樫野崎の岩礁に激突したのである。その岩礁は日本の水夫たちが魔の岩礁として恐れていたものであった。