祇園寺
有松には神社仏閣としては、祇園寺と天満社があります。天満社の紹介は次回にして、今回は祇園寺の写真をお見せします。
祇園寺は曹洞宗のお寺で、鳴海にあった猿堂寺を宝暦5年(1755年)に有松に移転して祇園寺と名づけたものです。祇園寺には有松幼稚園も併設されており、普段は可愛い子供たしの声が聞こえてきます。
祇園寺正門
この祇園寺には仏の足石があるとき聞いて、早速拝見。
この仏足石について、有松の「あないびと」であり、また私の親しい友人でもあるT氏から以下の由来を教えてもらいました。
仏足石は、もともと釈迦没後数百年間(紀元前)の無仏像時代にインドで作られ、『本来釈迦がいるはずの位置を仏足石のみで表して、釈迦の存在を暗示的に表現していたもの』と言われています。
玄奘三蔵が経典を唐にもたらした頃に、仏足石の模写図も唐にやって来たようです。
(唐代の古都、中国・西安の大雁塔で彼の地に残る仏足石を転写した銅板を見て、見慣れた祇園寺の仏足石との類似に感激したものです)
さらに、遣唐使がこの図を写して日本に持帰り、奈良・薬師寺にある国宝の仏足石が造られたとのことです。
有松・祇園寺のものは薬師寺と同形です。仏足石が各地の寺に普及し始めた19世紀前半に作られましたが、それでも県内の20基以上の内では最古、国内でも早期のものです。
祇園寺の仏足石のある一隅は比較的静かなところです。
シルクロードをたどって日本の都に着いた文化が、国内の文化伝播ハイウエイ東海道を通って尾張の民衆にも普及した痕跡です。本来「イコン」のようなシンボル図なので、実際の仏の足型ではありません。
仏の御足跡
この仏の御足跡を歌った石碑がそばにありました。
歌の石碑
ここの石碑の意味もも友人のT氏に教えてもらいました。
石碑には、歌碑には「光明皇后恭仏跡」の文字が見られますが、石碑が祇園寺に建った文政11年頃には「光明皇后」御歌説が行われていたからです。昭和期以降はこの説は全く否定されています。
石碑の写真をクリックしてもらうと字が読めると思いますが、以下のような万葉かなで書いてあります。
「美阿止都久留、伊志乃比鼻伎波阿
米尓伊多利都 知佐閉由須礼
知〃波〃賀多米尓 毛呂比止乃多米尓」
これを現代の言葉に書き直すと次のようになります。
『 「御足跡作る 石の響きは
天に至り 地さえ揺れ
父母がために諸人のために」 』












