金曜日の夜は西河の誘いを、新聞か宗教の勧誘のように断り、翌日に備えた。
想定していたことではあったが、案の定寝付けなかった。
寝なければと思うほど眠れない。
時間はある一定までは「永遠」にも感じるほど長く、6時を境に「あっという間」に転じた。
待ち合わせは午後2時。
僕たちは通勤・通学の途中駅で待ち合わせた。
僕は時計で午前6時を確認した後、ようやく意識を失った。
幸いなことに、目覚ましは見事に僕をたたき起こしてくれた。
待ち合わせの2時間前。
準備の時間を考えても、十分な余裕がある。
爪を切り、鼻毛をチェックし、僕は入念に準備をした。
あまりにも入念過ぎたせいで、結果的に待ち合わせに遅れてしまうのだが、この時の僕にはそこまで考えが及ばなかった。
こんなに緊張したのはいつ以来だろう。
高校生の時、初めて好きな娘に電話をした時だろうか。
その頃は携帯電話なんてものは無く、親が出たらどうしようと、それはもう鼓動の音が聞こえるほど、動悸が激しくなったのを覚えている。
今の高校生はそれがないだけ、僕らの時代より不幸だと思う。
あの緊張感を味わえないなんて。
携帯電話は便利だが、不便さがもたらすスパイスを無くしてしまう。
待ち合わせについてもそうだ。
昔は何時にどこと、明確に決め、誰もがそれを守ろうとしていた。
外出してしまえば連絡が取れないのだから、友達同士の約束も、今よりしっかりとしていたように思う。
ところが今は『20時頃には新宿に着くよ』『じゃ着いたら電話して』だ。
時間も場所も大雑把で曖昧だ。
場合によっては『やっぱり行けなくなっちゃった』もまかり通る。
しかし、気がつけば僕自身も約束をないがしろにすることも多い。
時間通りに待ち合わせの場所に行くことも、全体の三割ほど。
しかし、彼女との待ち合わせには、必ず時間通りに行くだろう。
そう。
教えられた番号は間違いなく彼女の番号で、次の土曜日に僕たちは待ち合わせをした。
初めて好きな娘に電話をかけて以来、更新されることのなかった緊張のグラフは、まさに最高到達点を更新したのだ。
そして僕は震える手で携帯電話を握りしめ、平静を装いながら彼女を誘った。
彼女は「土曜日は学校が早く終わるんで、大丈夫です」と、明るい声で応じてくれた。
「とにかく、一回電話してみろよ。もしかしたら、その場しのぎにデタラメの番号を教えたかも知れないぜ」
考えてもみなかった。
西河の言うとおり、その可能性もないとは言えない。
むしろ確率は高いかもしれない。
番号がデタラメなら、クリーニング代を払う必要もないし、見ず知らずの30男と待ち合わせることもない。
僕なら間違いなく、その面倒なシチュエーションを回避する。
しかし、それならそもそも声もかけないのではないだろうか。
しかも、僕が電車を降りるのを待ってまで。
彼女が幸運のキーワード「よだれ」を口にするまで、僕はそれに気づいてすらいなかった。
更に彼女は僕より先に降りたのだから、足早に改札に向かうこともできただろう。
やはりここは彼女のモラルを信じたい。
自ら声をかけ、素直に謝罪した時の瞳を。
自分の世界に入り過ぎたのだろう。
気がつくと西河は去り、喫煙ブースには僕一人だった。