2003年9月

 9月に入ってから、足に青あざができるようになりました。2~3日で消えるのですが、すぐに新しいものができ、あざのない日はないくらいです。それでも、学校で激しく遊んでるんやなぐらいにしか思いませんでした。



2003年10月

 10月半ばになると、疲れているのかな?と思う場面が多くなりました。

 小さい頃から、あまり昼寝をしなかったのに、学校から帰ってきて、夕方おとなしいなと思ったら寝ていたということが何度かありました。そんなに疲れるほど遊んでるんやな、元気いっぱいやな~と思っていたのですが、今思うとしんどさに気づいてやれず、本当に情けない限りです。

 のんすけは、この春中学1年生になります。性格的に自習ができないタイプなので、そろそろ塾を探さないといけません。


 うちの近くには、5つ学習塾があります。どれも大手の進学塾。


 A塾には、昨年4月から今年の2月まで通っていましたが、9月にやった模試の結果が12月になっても知らされない、欠席の連絡が講師に伝わってない等、運営上の不満が他にもたくさんあったので、2月にやめたのです。


 先日、他の4つの塾に、資料をもらいに回りました。


 まず、B塾。地元では老舗の進学塾の個別指導部門です。教室長は20代後半くらいの若い女性で、応対は丁寧なのですが、なんといいましょうか、ぱっとしないというか…。フランチャイズでなく直営なのにこんな感じ????


 次にC塾。 応対したのは、若い男性。

私 「資料をいただきたいのですが。」

若い男性 「何の資料ですか?」

私 (????何の資料って、あんたのとこの塾の資料にきまってるやろ!と思ったけれど、この人は、一から言わないとわからない人なんだと理解)

  「新中学1年生で、今塾を探しているので、資料をいただきたいのです。」

若い男性 「△×◇○※*□……」(ぼそぼそと小声なので、聞き取れない。)と言って、奥に引っ込みました。しばらくして、「ちょっと時間がかかるかもしれませんが、お待ち下さい。」と言って(これはなんとか聞き取れました)、椅子を引いてくれました。

 おにいさん、あんたここで教えてんの?もっと大きな声で、はっきりと話さんと、授業にならへんのとちゃう?この人にあたったら、いややなぁと思っていたら、20代後半くらいの若い女性が登場。

 この人ははきはきしていたので、塾の説明を聞き、無事資料がもらえました。


 そして、D塾。応対したのは、これまで最年長の30代後半~40代前半くらいの男性。言葉遣いも全体の感じも大人です。 これまでの人と、全然違います。

 「お時間よろしいですか」と言って、パーテーションで区切られた所に通されました。そして、次に彼は、「私、教室長の○○と申します。」と言って、名刺を出したのです。おお!!これは初めてのことです。私も「うにょきちです。」と名乗りました。

 そして、彼は、「下のお名前は?」「進学する中学は?」「現時点での進路の予定は?」などの情報を私から聞き出し、それをメモしていくのです。カルテを作るという感じですね。これも初めてですね。

 15分ほど話をしたのですが、とても感じのいい人でしたし、塾の運営もきちんとしていると感じ、ここなら、子どもをあずけてもいいかなと思いました。

 4軒目にして、初めて本当の社会人に出会うことができたました。


 最後に、E塾。ここは、授業はしていたのですが、受付は無人。「すみませ~ん」と声をかけても誰も出て来てくれなかったので、そのまま帰りました。

 

 私としては、D塾のポイントが高かったのですが、どこにするかはまだ決めていません。のんすけはどこでもいいと言っているのですが、う~ん、難しい。経済的なこともありますからねぇ。

 ま、一番肝心なのは、本人のやる気だと友人が言っていましたが、それがほんとに難しいです。

 

 

      

  赤ちゃんの頃のゆかっちは、よく眠り、よくミルクを飲んでいました。特に体が弱いということもなく、かぜをひきやすいということもありませんでした。


 小学校入学までの6年間は、保育所に通いました。その保育所では、毎年夏になると毎日プールに入ります。外で遊ぶことも多いので、夏になると日焼けをするのですが、年少組の夏からは、毎日水着を着てプールに入っているにもかかわらず、水着のあとがつかなくなりました。顔も焼けず、白いままでした。のんすけは、真っ黒になって、お風呂にはいるときも水着を着ているかのようだったのに、同じようにプールに入っているのに、不思議に思っていました。

 入院してから主治医にこのことを聞いたのですが、病気との関係はわからないと言われました。


 活発で、体を動かすことが好きで、いつも走り回っていました。逆上がりは年長組の始め頃にはできるようになり、三点倒立も得意でした。 走るのも速く、竹馬は練習初日に乗れるようになりました。たまなし自転車も3日ほどで乗れるようになり、近所中を走り回っていました。いつも元気いっぱいの子どもでした。


2003年4月桜

 小学校に入学した直後、鼻血がよく出るようになりました。

 

 私が小1の時、朝起きてくしゃみをしたら、鼻を覆った両手の平が鼻血で真っ赤になるということが続きました。1週間くらい入院して、検査の毎日を過ごしましたが、 結局原因がわかりませんでした。鼻血も毎日出ることもなくなったので、退院しましたが、それ以後10歳頃までは鼻血がとても出やすかったです。 

 「よく、”チョコレートやぎんなんを食べ過ぎたら鼻血が出る”と言われるけど、本当に鼻血が出た人には会ったことがない。」とトムさんに言われたことがありますが、それは私です。その頃は、チョコレートや銀杏をたくさん食べると鼻くそをほじくったわけでもなく、鼻にさわりもしないのに、鼻血が出ました。その後、血液疾患は見つからず、今に至っています。


 そんな私の経験があることと、小学校入学という環境の変化で体調が変わったくらいに思い、それほど気にはしていなかったのですが、あまりに頻繁に出るので、かかりつけの小児科に行ったところ、止血剤(名前は忘れました)を処方されました。それで止まらなかったらまた来て下さいと言われたのですが、止血剤を飲んだらぴたっと止まってしまったので、それ以後は気にすることもありませんでした。


 振り返ってみて、このときに血液検査をしていたらと思うこともあります。この半年後に入院することになるのですが、入院直前はかなり体調が悪かったので、この時にわかっていればしんどい思いをさせずにすんだかもと、悔やむこともありました。


 そして、いつからでしょうか、くちびるの色が薄くなっているのに気づきました。夏休みの頃には、もうとてもうすいピンク色になっていたと思います。

 はじめまして、うにょきちです。


 2003年11月に、次女ゆかっち(当時小1)が再生不良性貧血(最重症)と診断され、その後半年間免疫抑制療法を行いましたが効果がなく、2005年1月に骨髄バンクを介して骨髄移植を行いました。現在は軽いですがGVHD(移植片対宿主病)とつきあいながら、元気に生活しています。


 本当はリアルタイムで書いていけたら良かったのでしょうけれど、当時はそんな余裕はありませんでした。移植してから1年がたち、ちょっとゆとりが出てきたので、その間の闘病の様子を振り返りながら、また、現在の様子も、母親である私の目から見て書いていきたいと思います。テーマを順にたどっていけば、病気の経過がよくわかるようにしたいと思っています。その他、日常のひとりごとも書いていきたいと思います。


 私の家族は、

・トムさん…だんなさん、日本人です。自宅3階で設計事務所をしています。私もちょこっと手伝っています。

・おばあちゃん…トムさんの母、お姑さんですね。

・長女のんすけ

・次女ゆかっち

の5人です。

 梅ママ(私の実母)も登場予定です。


 なにぶん、ブログ初心者ですので、よろしくお願いしますm(_ _)m


 それから、このブログは、闘病に関しては、私の記憶を頼りに、日記と主治医から説明を聞いたときのメモなどを見て書いています。治療方法については、同じ再生不良性貧血でもその重症度によって違いがあるので、あくまでもゆかっちの場合としてお読み下さいね。