前のブログからかなり時間が経ってしまった感。
これまで起承転結的な感覚を元に「落ち着いたら書こう」と書いていたのが、結末の来ない日々がずーっと続いていたような私の2021年。
もう2021年も残り1ヶ月半〜!💦
今朝は北海道の姉の手術が無事終わったとの連絡が母から入った。
9月に母と姉の2人で事故に遭い1ヶ月入院、その後も姉は大きな仕事続きで多忙だった。全国ニュースでも話題になっている件の担当で、ニュースを追う度ハラハラ。手術ギリギリまでとにかく大変そうで、インドから帰れない私も正直心配で。
信じてるんだけどね、
良くなるためのターニングポイントだってこと。

インドでは11月4日にディワリ祭があり、販売職の夫も毎年恒例で1ヶ月休みナシのハードワーク。またもや夫婦で長引く咳風邪ももらって地味に疲れたー。
私にとっては今年のディワリは、 tinyuri.india のストアやインスタを通してインドの手仕事に注目して下さる日本女子の皆さまと一緒にお祝いをした初めてのディワリ。
(これまでは毎年人知れず飾り付けやお祈りをして夫と祝うのみだった🙏🏻チーン)
2週間のセール期間には有難いご縁を沢山いただいて、日本とインドで一緒にお祝いできた感覚がまず新鮮、初めての充実感に目覚めさせてもらいました。
夫はディワリ連勤が明けたら村の実家に帰りたいと弱音?を言うこともあり(この前2回も帰ってるのによ)、気持ちは分かり過ぎるくらい分かるけど(私ぁ2年以上実家に帰っとらんw)
そんな弱気も風邪も気合いと抗生物質(最終兵器。泣)で乗り切った。
日本から気に留めて下さる方々がいると思っただけで心は満たされるのに、
反比例する様に身体に出てしまうのは、大き過ぎる期待感?
それでも今の自分たちを越えないと、どんな未来にも踏み出せない気がしている。
長く停滞してしまったかの様な現実と
新たに描き始めた未来の間で
もがきたいだけもがけるのなら、
それは今の私たちには幸せなこと。
そんな疲れ切ってる時にさらに夫の実家のワチャワチャに巻き込まれに行く気力は到底出なかったけど、
ー そうだ、ラジャスタンに行こう。
と、バブル期の電通のCMの様に唐突に閃いていた。
(牧瀬里穂とか懐かしい。あれはクリスマスエキスプレスか?)
日本でイメージしていた様な「全てがカラフルで象がいてお城がある🏰🐘✨」みたいな、インド生活5年でもまだ見ぬインドらしい風景を見に行く時期がようやく来たようでワクワク。
私にとっては一生明けない夜のような、思い通りに行かないインド生活の序章がようやく明けそうな
「インド生活 第2章」の始まりのような。(←大げさか)
私とインドのご縁は、潜在意識に埋もれた様な、僅かで微かなつながりで
記憶にあるのは小学1年の時、インドの日常を描いた妹尾河童のイラスト本を父が買って来て、吸い込まれる様に牛の糞を乾燥させたもので作る家の様子なんかを夢中で見ていた。
当時、後進国(って今言わない)の日本人学校に派遣される同僚から両親はよくお土産をいただき、不思議なテイストの絵が描かれた本場のアッサムやセイロンティー、南インドコーヒーはいつも食器棚にあった。
80年代〜流行ったのか?なぜか母はありとあらゆるインド沙羅のカラムカリ、ろうけつ染め、ブロックプリント生地のマルチカバーを持っていた。色黒でハッキリした目鼻立ちの母は、休みの日はよくインドのワンピースを着ていたっけ。
(見た目インド人。笑)
また父は美術教師で絵画と彫塑のアーティストでもあったので、世界各国のアート作品から影響を受けていたよう。今振り返ればインドの古美術品と分かる(当時の私には謎の)オブジェや銅版画が居間にある。
そう言えば。。?って思い当たる程度に、ビミョーにインドに呼ばれ続けてた私?
高学年位にはお小遣いでラジャスタンの刺繍タペストリーを買って部屋に飾り、中3で妹とコタ織りのブラウスやワンピースにハマった。それがインドの物とか知らないまま。
その後ブームが来たエスニックショップにはくまなく通い、民族衣装や楽器、お祈りグッズが増えて行く。
まだ自分がいつかインドに行くとは全然思ってない頃。
私とインドの回顧録って、書くの初めてで恥ずかしー。笑。まぁ一応、記録ということで。
大学では異文化学専攻、アメリカではアート専攻で、そう言えば入学後初めて話しかけてくれたのはめっっちゃ美人のインド人だったっけ。(腰までの長いウェーブの黒髪で、華奢で美しい人だったなぁ〜)
ホームステイ先のハウスメイトの一人も南インドの出身で、よくインド料理を教えてくれた。「国に帰ったら親の決めた人と結婚するの」と言う割には悲壮感のないおおらかさが不思議だったっけ。
ネイティブアメリカンの世界観に惹かれ、休みには友人と車で大自然の中、ラジオの電波も入らないインディアンレザベーションを訪れたのは衝撃の体験だった。
初めてヨガを習い、授業帰りはスリフトストア通いに余念がなかった若き頃。
帰国後は英文メディアの仕事をしたので欧米人と知り合う事が多く、インド人の知り合いは全くいなかったのですが。
それが変わり始めたのが、早いペースの仕事に疲れ果てた後、マクロビカフェに転職したり、地元北海道のアイヌ民族のアートや権利運動に関わったり、
世界各地からアイヌのお祭りに参加するために訪れる人たちと出会ってから。
世界の先住民族の人たちは
私たちと全く違う人生観と
異なる時間軸を受け継いでいる。
別次元への扉が開いて行く様な出会いが続いた。ニュージーランドのマオリ族、ハワイやポリネシアの民族、アボリジニー、北欧の民族、ネイティブアメリカン、イヌイット、アイヌ民族の人たちとの出会い。
ちょうどJICAで臨職をしたりで、技能研修で訪れる各国のグループの今を楽しむ姿勢も目の当たりにした。
自分の時間を果てしなく犠牲にしながら働いても、何だか孤独で将来の見えない独身OLだった当時、「第三世界」の人たちの楽しげな様子はひどく象徴的なコントラストとして目に映った。
(ケニア人の奥さん5人いるオジさんが嫁に来いと言ってた。自由か。)
私も、楽しそうな方がいいなーって。笑
(実際にインドでローカル暮らししてみた今は、絶対むやみにお勧めできないけど)
それからも30代の10年間は日本をじっくり味わうような会社員生活。学習塾、フリースクール、私立高校、インター幼稚園と教育分野に浸かった。
じっくりと日本の酸いも甘いも見て良かったなと思うのは、これからどこに暮らしても、日本の今と共感し続けられると思うから。
なんて、振り返ってみたくもなる2021年の終盤。
この2年半閉じられた世界の中で、SNS等を通してだけど各地の人の色々な想いに触れる事があり、
この隔たりで国際恋愛の試練を迎えている女性たちや、かつては度々インドを訪れていた人たちのこの地への強い想いに触れている。
「1日も早く自由に行き来ができるように」
切ないほどの共通の想い。
私自身も、身内の危機にどうしても立ち合えない場面にいくつも合い、外界に理由を求めてもどうしようもない所まで来て、そんな今、一層強く感じるのは、
「目には見えない本当の繋がりを信じて取り戻すこと」。
私たちが日々「あれがしたい、これが欲しい」とボロボロになるまで酷使して来た自分自身のことや、
限りある地球環境の恩恵さえも無意識に搾取してしまっている、求めて止まない意識のあり方。
病になる時もそうだし、こうやってハイパーに人物情報が行き交う無意識の欲望に対して、
広く繋がっている宇宙意識から、「それで大丈夫?」って問われていても仕方のない状態な気がするんだよね。
もっと自分の身体、心、魂との繋がりを取り戻して
自分の中の神聖と繋がり直して。
スピ系でも何でもないけど、ヨガや占星術をかじって瞑想をする者として、開けて来る次元というのは、
全てはつながっている
という概念が、厳然たる事実でしかないという感覚。
人類全体が追うべき責任を見逃しているから、こうやって地球全体に波及する問題として届けられているように見えるのです。
問題の大きさを前に恐れで心を閉じる前に、誰かや何かのせいにする前に、諦める前に、
小さな事ならできる事が沢山あると気付く仲間が増えているように感じるのも、これまでにはなかった希望。
会いたい人に会えなくなるような世界を創ってしまったのは、私たち。
そんな悲しい世界じゃなくて、もっと丁寧で優しい世界を創ることができるのも、私たちしかいないということだよね?
今までも目に入らない世界の片隅で、私たちが発展するために犠牲になった心が沢山あって、その人たちの身になって共感出来るようになるために、この隔離も孤独も訪れたのかもしれない。
本当に1つの共同体としての地球をみんなで守ることが出来るのか、目覚めなさいと言われているんじゃないかな。
同時に、物理的に会う事が出来なくても、心で繋がり恊働できる人類の精神性の高さも日々実感できる時代。
インドにいても、日本にいても、世界のどこにいても
この最善の現実を学びに換える作業は
どの人にも等しく降り注ぐ恩恵に思える。
なので。
(インドにいてラッキーね、私も早く行きたいわ)
って言われる度に微妙ーな気持ちになっていた私ですが、笑
それはそれでその人の学びがあるんだな
私の学びだってここにあるしな、、、
と思って日常を何とか送っている感じでもあります。笑笑
残る2021年も大切に生きて
来たる2022年に備えて行きたいものです。
