魂の家族がくれたもの | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

本当は、どんな世界で生きたいんだろう?

 

そんな問いも、インドの家族がいなければ浮かばなかったかもしれない。

 

見たい世界とは正反対の状況に愕然として、その状況をまとめて書いてしまった前回のブログ。

 

 

世界には光と影とその間があって

 

どこに目を向けるか選ぶ事が出来る。でも私の性格的に「闇の部分」を理解して初めて「光の部分」を理解できる気がするんだよね。だから書かずにはいられない。

 

ネガティブな出来事に反応して内側がザワザワするのに、ザワザワの正体を内面に見つけずに過ごしても、再び似たような出来事が起こる。

 

ザワザワは、お知らせだから。

 

私の古傷がどんな事に対してまだ反応するのかを知るために、やたらイベントフルな義実家での日々はこの上なく有益だったのかも。笑

 

 

レモンの花のつぼみが可憐だった。

 

 

「なんじゃこりゃー?」っていう騒動は、ドラマチックでネタになる。だから書きやすいだけで、現実には「良かった事、嬉しかった事」も同じ位起きている。

 

 

でも何でだろう。「良かった事」を書くのはちょっと恥ずかしい。出来れば秘密にしておきたい様な?敢えて書くこともないでしょって思ったり。何だろうこの心理?

 

 

でもそれではフェアじゃない。インドの家族は、奇跡的にご縁を頂いた私の魂の家族。摩訶不思議で極端で、私の知らない世界をこれでもか!とビシバシ見せ続けてくれる、欠け替えのないご縁。笑

 

 

お義母さんほど懐の深い人を私は今まで見たことがない。

 

外国人の嫁を受け入れるのはこの郡では初のこと(地元紙情報)。最初は皆が戸惑い色々あったけど、すぐに心を開いてくれたお義母さん。

 

突然アパートに現れては(笑)料理を教えてくれ、鍋類もプレゼントしてくれて。本来なら嫁側の実家で開くはずの婚約式も開いてくれたっけ。

 

言葉がほとんど話せない私の片言を理解してくれるのは、お義母さんだけ。(他の人と喋るとポカーンとされる。)たまに英語が出ちゃっても「うんうん」って通じてる時もあるし!笑

 

 

小麦刈り終えた根元を除去する作業を終え、牛糞肥料を入れるところ。
 

 

私は夫よりも一回り以上年上。3度流産して子供は諦めてた。でもお義母さんは結婚に反対もしなかったし、優しく子供はきっと出来るよと諭してくれただけ。今年は子供の事は言わなくなった。

 

農家の仕事も食事の支度も「やりたければどうぞ」という姿勢でいてくれた今回。お嫁さんが全部やってくれるお陰でもある。

 

 

たまに「民族衣装を着た方が良いよ」と言われても着慣れない私は「今日は着ません」と言い続けてるし、チャイを淹れてくれても白砂糖入りは絶対飲まない(身体に悪いからね)私に気を悪くしたり、私の愚痴を誰かに言ったりもしない。

 

村ではネガティブコミュニケーションが主流なのに。笑。私には寛容なお義母さん。

 

 

こんな私を「私の娘」と言って、たまにとび切りの笑顔を見せてくれる。「ミーナは口も利いてくれないのよ」ってね。何ぁんだ愚痴を言いたかっただけか。笑

 

愚痴も身内の間での悪口大会も、年を取ることの怖さや分かってもらえない寂しさを一時的でも忘れられるなら、必要なものなんだろう。本当は仲違いなんてしたくないんだよね。

 

 

サンニが腕をふるってくれたエッグカリー。ノンベジは台所で調理してはいけないので、納屋の前に火を起こす。

 

 

去年の一件からどうも顔を合わせるのが苦手になってしまった義弟のサンニも、素の時は兄(夫)よりもずっと謙虚でよく気が付くタイプ。必要な物をスッと差し出せる気づかいがある。

 

 

ただ少し飲むと急に態度が大きくなる。普段すごく内向的で繊細だからなんだろうけど、そのギャップが怖いと感じる私。「何なのあの態度は?」ってなる。ヤな義姉ー。

 

義弟を全面的に悪者にするのは間違っている。私のトラウマが過剰反応してるのだから。

 

長年脳に刻み込まれているせいか、少しでも嫌な気配を感じると、反射的に全身が臨戦態勢に入ってしまう。少し背後で気配がしただけで飛び上がったり。ストレスが多いと夫に対してもコントロール過多に。

 

サンニは、私が内面の課題に向き合うために神様が送り込んでくれた最終兵器だと思いたい。笑

 

 

あの人を変えたい、この社会を変えたいと、あの態度がゆるせないと、外界がやたらと気になる時、それは押し殺された心からの叫びかも。

 

 

サンニは私たちが村に到着する時は毎回、以前プレゼントしたシャツを着て迎えに来てくれたりする。今回持って行ったポロシャツもこの滞在中よく着てくれていた。本人は何も言わないけどそれが彼の感謝のジェスチャー。素直で良い子なんだよね。

 

 

こちらは従甥のラッキー君。いつも夫の家の事を手伝ってくれる大学生。

 

 

そして我が夫。私を直接知る人にはバレてるから普段あえて言葉にする事もない、もはや空気のような存在。いつも何かに夢中で、何にでも一生懸命で、ずっと一緒にいると若干疲れる(義母に似たか)笑。

 

 

この前は「嘘をつかれた」と書いたけど、それも誰かをかばうための嘘。人を喜ばせるのが好きで、どこにいても場の盛り上げ役。仲間意識が強いからか悪友や村の半端者からも好かれてしまう。差別をしない人。自分大好きだからね。

 

 

もはや理解不能の懐の深さも、お義母さん譲りなのだろうか。笑

 

 

夫は無条件で私を受け入れてくれる不思議な存在。私自身が受け入れられてないと言うのに。私が死にそうでも意地悪でも、ずっと味方でいてくれる。私は夫を批判してばかりなのに。

 

 

笑顔やジョークを絶やさないのは、殺伐としがちな厳しい暮らしの知恵かもしれない。私の話を聞いてない時は腹が立つけど、大体は私が要らんお説教してる時。笑

 

 

朝からラズベリー狩りに付き合ってくれる。いつも感謝!
 

 

そしてミーナ。自分のしたい事の前にするべき事をこなせる女性。若いのにあの義母に振り回されない術を既に身に付けているのは、インド女性らしい芯の強さ。

 

一緒にゲームをしてる時は、笑顔のかわいい素直な女の子に戻る。遊んでるのを義母に見つかりそうになると、「キャっ」と叫んでとっさに隣の部屋に陰に隠れたり。女子高生みたい。笑

 

(そして自分の態度のデカさと鈍い身のこなしに笑えた。)

 

 

頑張っている毎日、辛い事もすれ違いもあるだろう。私もそうだったっけ。今はそんな大切な時期なのに、私は彼女が生意気で頑固者の様に書いてしまった。何も出来ないのに何とかしようなんて思うから。笑

 

 義母の態度が理不尽な時は、家族だろうと受け入れる必要はないのだ。

 

 

「これが問題!ここが変!」と勝手にジャッジして、そこだけ拡大フォーカスして見てしまう時。本当に問題なのは相手ではなく、私自身の心の不安定さ。

 

 

義母もサンニもミーナも、この半年3人で精一杯頑張って来たこと、痛いほど分かるのに。

 

 

裏のハイビスカスを取って来て、髪につけてもらってパチリ。
 

 

 

インドの村は、変化に疎い。

 

でも伝統を変化させ過ぎて何が大切かもよく分からなくなった社会から来た私には、その価値が見えていないんだろう。

 

良かれと思って「白砂糖よりきび砂糖が健康的よ」とか「合成塩より岩塩が美味しいよ」と言っても、この地域全体で受け入れられられている習慣を変える理由にはならない。

 

来客の多い村の家では、きび砂糖のチャイなんて出せない。私の話を受け入れることなど、きっとどうでも良いこと。笑

 

 

意外とお義母さんだけは、ポカリスエットも飲んでくれるし、ハチミツ入り緑茶も飲む。作ればパスタも食べてくれ、梅干しも「今度は私が作るわ」って言ってたよ。気持ちを踏んでくれてる?

 

 

でも。変化に疎いことは、地域の伝統を守ることにも直結する。個人の嗜好よりも尊い価値。

 

 

例えばゴーヤを料理する時、この地域では必ず皮を削ぎ落とす。日本のゴーヤが恋しい私は「皮を残して調理して欲しい」と言ってみた。でも「ゴーヤはこうするものなのよ」と全く取り合ってくれない。「どういう理由があるの?」と聞いても「こうするものなの」の一点張り。

 

 

ここでは野菜は皮を剥いて調理する決まり。(せっかく無農薬なのに、皮の部分に栄養があるのに?)と思う私の思惑を優先する理由はない。キュウリのサラダもキレイに剥いて輪切りにする。何故?と問う前に、言われた事がこなせなければ生き残れない暮らしがあるのかもしれない。

 

未だインドの村では赤痢の可能性もあるだろう。

 

生命、慣習、生態系、文化を守るという意味で、「変化させない」という事は大事な聖域かもしれない。

 

 

皮がむかれたゴーヤ(カレイラ)たち。ちょっと待ったー!って、言いたくなりません?笑
 

 

「違いを尊重する」という気持ちを強く自覚しないまま「何言ってるか分からない。食べ物も全然違う。えーっ断られた。誰も分かってくれなーい」と、幼稚で利己的な私の出る幕ではない。

 

 

彼らを尊重するためには、とにかく黙って冷静によぉく観察する時間がもっと必要な気がする。インド5年目でも私なんてほぼ引きこもり。

 

インドの人たちの根底にある大切な価値観に触れたいと願う前に、ささいな事でパニックを起こすトラウマを静めないと、毎回不本意な結果にしてしまっている。

 

 

 

本当に見たい世界は、きっともう目の前にあるんだろう。今はまだ私の目が曇り過ぎていて、その影ばかりを恐れて逃げ回っている。

 

 

自分の闇を受け入れて癒して、光を受け取って楽しんで、何事にも動揺せずに対応出来るしなやかさを持ちたい。

静かにありのままを見れるようになりたい。

 

それがインドの魂の家族がくれた課題。

 

一生かかって実現出来るのか?笑

 

だから、本当はありがとうしかないのです。

 

 

笑いも驚きも騒動も、ネタの尽きることがないインドの家族。次回はドリフみたいなオチの一件を書こうか書くまいか。笑