恐れと執着と、生命エネルギー | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

前回は「執着」について書いて、

 

私の住むインドの町に「食べ慣れた日本食がない!」だから「すっごく不安!」っていう私の心の叫びを、「食への執着」と捉え、(いっそ手放してしまえ)と書いたのだけど。

 

そんな風に表面上で封印したのは

間違いだったと後で気付いた。

 

執着してる「対象」は何も悪くない。

 

私の心が「何故それを求めるのか」

理解しようとせずに封印するのは

抑圧でしかなかった。

 

執着するのは「恐れ」があるから。

 

あらゆる依存症の原因でもある。

 

実際に手に入らない物や身の丈に合わない物を、出来るものから手放して行くのは悪くはないけど、同時に心を開いて、私が何を恐れているのか分かってあげるべきだった。

 

 

不足感・欠乏感

孤独感。。。

 

どうしてそんな耐え難い感情を、いつまでも手放せないんだろう。

 

 

インスタで「日本のパン粉やソースがこちらでどんなに貴重か!」伝えたかったけど、ほぼ伝わらなかった。笑

 

 

仏教では全ての事象に「因果応報」を見い出すとこの前のクラスでも言っていた。

 

過去生と現生そしてこの瞬間も、感情・思考・現実のあらゆる原因を作っているのは「私」に他ならない。(外界に影響されているとしても、そうすることを選ぶのも私。外界という環境の一因になるのも私。)

 

不足感 → 恐れ → (物事への)執着 

→( × 無限ループ)という苦しみ。

 

変えられるのは私しかいない。食べ物に限らず、お金や夫やお気に入りの服など笑、全ての物は「空」であり、永遠に存在するものはない。なくなる事を恐れるなんて、ナンセンスなのだ。

 

ちゃんと受け取れていないのかな?

 

そんな風に思った。ある物をちゃんと受け取って自分の栄養「生きる力」にして、感謝して明るく行動出来れば、

 

次にまた何らかの力が与えられることを信じられるし、その事実の前に恐れの出る幕はない。

 

 

よく自己啓発心理で、コップに水が半分入っている時「まだ半分ある」と思うか「もう半分しかない」と思うか、という話がある。ここ数ヶ月、後者の逃げ腰でいたなと思う。

 

 

ある物をちゃんと受け取って

やったー!と感謝して

自分の「生きる力」にする。

 

 

受け取りベタな日本人が

インド人に学ぶべき事にも共通する。笑

 

 

最近は特に「ない物」へフォーカスすることが多かった。帰国手段(ない)そのためのリソース(足りない)実家での安心感(夢のまた夢)。健康を害した時安心して身を任せられる医療施設も(なかった)。

 

でも。

 

子供の頃から何故か夢にまで見た国にいるし、目に見えない力を素直に信じる人たちの間にいて、日本にいた時は毎日食べたいと願ったインドカレーを3食べれるなんて、良い方の因果応報だって叶いまくりなはず(3食作りたいとは思ってなかったぞ?)。

 

 

私たちの手元にあるどんな事物も

私たちの手元に来るべくして来る。

 

だからちゃんと素直に受け取らないと

おかしなことになって来る。

 

遠慮して自らブロックしたり、目移りしてないものねだりしたり、あるものに感謝して活用することを忘れてしまう。

 

物やお金に「善悪」なく、全てはニュートラルに存在しているので、拒むのも享受するのも譲り渡すのも、私たちの心ひとつ。恐ることは何もないと知るために、こういう経験をするのだろう。

 

 

「生きる力」とつながりたくて

インドでこんな事を書いている。

 

バスマティライスを足して、塩麹を増殖中。「ないものは作る」のも、私の生きる力だった。

 

 

ヨガも仏教も教わらない頃、本能的に手放したくて手放したくて、日本での便利な生活も、話の分かる親しい人たちも、安心安全も、手放し続けてこの下町にたどり着いた。昔数年間ベジタリアンになったのも、今思うと手放すことの実験過程だった。

 

無意識に、何もかも捨てて、本質に還ろうとしてたんだね。笑

 

けど、結局「恐れ」を手放すことを知らないと、丸裸になっても執着の苦しみは消えない。

 

「信じる」ことをやらないと、どんなに頑張っても何を得ても砂の様に無駄にしてしまう。

 

 

 

 

 

「生きる力」って、

 

チベット仏教では経典(スートラ)を学んで実践(日常生活で行動)することに重きが置かれるのに対して、ヴェーディックでは(タントラ)、いわば「直接法」で繋がることが主となっているのだと理解した。

 

ヨガ、プラナヤーマ、瞑想、祈祷、お祓い、霊気。

 

タントラって、エネルギーワークのこと。

 

かつてインド人のヨガの恩師にいくら質問しても、仏教の先生の様に言葉で説明してくれないのは、隠してた訳でも、ものすごい「秘密」だった訳でもなく、言葉で説明するのが不可能な「実技」だったからか、と。

 

でもインド人の様に何の疑問もなく直接法(プージャ、巫女さんセッション)をして育ってない私は、ヴェーダ的な直接法をJust Do It. で教わっても、手がビリビリし始めたり、床がブルブル振動したり、夜、暗闇で目を閉じてるのにやたら眉間あたりが眩しくなったり、そういうのでもの凄くビビった。

 

超常現象/頭おかしくなった!!って。笑

 

それで逆に数年ほど、何も信じれなくなって今に至るのだけど、この同じ生命エネルギーについて、仏教クラスでは分かりやすく言葉で論理的に説明してくれたから、不信感から救われつつあるのだと思う。

 

 

インドに住んでても、インドの良さを全く理解出来ずに「何でプージャばっかりやるの」と思っていた。でも世の中には効果・副効果を生じない事象は存在しないという因果の法則で説明してもらって、これから瞑想を続けてみたら、少しは分って来そうな気がしている。

 

 

 

昨日引いた「過去・現在・未来」。生きる力を信じて、地道に行くのです。笑