私が、「○○しなきゃ」と言うと、
(片付け、買い出し等々)
夫はいつも「分かった、僕がやる」と即答。
「後でするから」、と。
日本では1人でできる衣食住。でもインドの下町暮らしでは、私はいつも夫頼み。ここでは自由な足がない。
20Lのミネラルウォーターも、市場で買い込んだ食料も夫なしでは運べない。トイレットペーパーもアタやお米も、まともなのは市内にしかないし。
足の怪我が治りかけたと思ったら、今度は膝の裏がめっちゃカユい。2日続いたところで、これは去年かかった「Scabbies」(疥癬)だ!と思い当った。
疥癬(かいせん)はダニの一種。アセモ?と間違えやすいけど、小さな赤い点は痒みが強く、自然には治らない。それで去年もらった処方箋を見つけて「薬買って来て」と夫に頼むと、「分かった。後で買ってくる」と。
。。。(今じゃ、今!!!)
40過ぎた私の辞書に「後で」はない。このインドで「後で」が存在する保証がどこにある?不慮の事故、病気や怪我、親戚のゴタゴタ、停電、断水、
私の我慢にも限界があるで。
結局この日の夜には買いに行ってくれてホッとした。お願いしている身でありながら、後回しにされるだけで生存の危機さえ感じる。自律神経死んでるねー多分。
今、夫の仕事は休みがない。夫の会社のオーナーは今年借金を完済したので、ようやく在庫も回るようになり、今なるべく売り上げたいのだろう。
夫も、今はやはり頑張って経験を積まなくてはと思っていて、休みがなくても仕事があるだけマシだと言う。
夫の親戚も仕事で苦労は絶えないらしい。
一番上のお義姉さんの夫、ジッジャイ①はこの夏ミャンマーに出稼ぎに行き、その後何故かカンボジアから「逃げて来た」と帰国。詳しく知らないが、何か騙されたんだろうね。
二番目のお義姉さん家はもっと大変。立ち退きに逢って引っ越して、今は家賃と食費を払うので精一杯。高血圧(と多分ウツ)でいつも辛そうだけど、義兄③は転職もままならない。治療費を借金してるから。
三番目のお義姉さんの夫、ジッジャイ③は、去年陸軍を辞め、実家の村で盛大な「引退式」をした。その後1年、未だ仕事が見つからない。今は軍からの年金と、お義姉さんが早朝作ったラージマライスを車に積んで、近所の大学前で売って生活してるって。。
。。。戦後かぃ!
先週木曜。ダニー君たちを撃退するべく洗濯&天日干しと、部屋をライゾール(マジックリン的な消毒液)で消毒していたら、おもむろに部屋のドアが開き、お義母さん登場ー!
アポなし、4度目?
もう驚くことさえ面倒になる。笑
言葉も片言なので、とにかくチャーイ、お菓子、果物、食事をせっせと出し続けた。夫が帰るまでの約10時間の耐久戦。。。
お義母さんはデリーのお土産と言ってキラッキラのヘアクリップをくれ、「日本から懐中電灯買ってきた?」と。私が「インドで買います」と言うと、しばしビミョーな空気が流れる。
ヒンディー語の会話集を見せても始めはあまり反応なかったけど、「家族」のページで「ポーター」(孫息子)が出てきた途端、様子が変わる。
「私もポーターが欲しいわ!アナタの赤ちゃん。ポーティー(孫娘)でもいいわ、ね?私の言ってること分かる?」
。。全っ然分からないフリしてもーた笑。
その後「夕飯はブラックダールでいい?」と聞くと「いやだわ」とお義母さん笑。もう仕込んでたので、ロキのサブジーも作ったら、結局両方モリモリ食べてた。
帰って来た夫に「私がするって言ったのに、この子はさっさと夕飯作っちゃったのよ!」と訴えてる。文句なのか褒めてるのか不明。
それからずーっと夫に、早く赤ちゃんが見たいとか、隣村に良いお医者さんがいるから連れてってあげるとか、大きなアパートに引っ越したら私も来れるのにとか、やっぱり村に帰っておいでとか、仕事がなくても畑をすればいいじゃないとか、夜遅くまで無茶苦茶な話ばかりし続けた。(夫がキレないのが偉かった)
朝には夫がバイクで送って行った。
土曜日は訃報があった。
私たちが同棲し始めて半年後くらい、近所で夫の知人に会った。その人は2人が一緒に買い物してるのを不審に思った様子だった(村の娘と見合いするのが通例のため)。
それからすぐに夫の家族に私の存在がバレ、まぁ色々とあったのだけど(当時の記事→「4月7日 早朝」)。このバイヤージが心臓発作で突然亡くなった。しばらく無職で、亡くなる前日ようやく自動車部品セールスの仕事が見つかったとか。
電話で訃報を聞いて夫は戸惑っていた。年長者の言うことを聞かない人なので、気にかけてくれたバイヤージに申し訳なかったのだろう。
バイヤージは私たちのキューピッドだったかもしれない。グズグズと家族に言い出せずにいた当時、結局は、代わりにチクってくれて助かったのだから。三丁目では、命が何だかあっけない。
もし明日が来ないとしても、ここの人々は淡々と粛々とするべき事をして、変わりばえしない日常を送るだろう。それ以外ないのだ。
それはそれで尊い在り方だけど、私には、あまりにあっけないと感じる。
昨日はお義母さんの高血圧の通院日で、月曜で激混みの巨大な国立大学病院まで行ってきた。入り口をから既に押し合いへし合い。お義母さんと夫と院内食堂で朝ごはんを食べたけど、人混みに酔ったのか気持ち悪い。お義母さんの順番を確認し、待合いベンチを確保したら私はすぐに帰ることに。
夫はいいよと言ってくれた。でもお義母さんは付き添ってとゴネる。私はゴメンナサイと言って夫と病院を出た。お義母さんの順番は258番目でその時はまだ50番台、午後に夫が再び行って診察に付き合った。
ごった返して肩がぶつかったり、足を踏まれたり、よろけるおばあちゃんに腕を掴まれたり、食堂の席に次から次へと割り込まれたり、そういうのに数時間耐える自信がない。
人の価値とか
命の尊さとか
病院のありかたとか
そうじゃないよ!と、ときどき駄々をこねたくなる。もっと一人一人が大切にされないと嫌!と思ってしまう。そうしたところで、私にはインドの何も誰も容易には変えられない。
帰りはタクシーでモールに行った。お義姉さんたちの困窮や、お義母さんの健康のことを思わない訳ではない。でも、私は夫と幸せに暮らすため、この日はいっぱいショッピングをした。必要だけどちょっと手が出なかったものも、全部見つけて買って来た。
すると、うまいことセールやってたりして笑。
インドの人たちから見たら、私は贅沢病だろう。
インドでは外出も仕事もままならず、毎日家で疼痛が痛いとか貧血が辛いとか嘆いてた。でも食べることに困ることも、面倒を見なきゃならない子供もおらず、死ぬような病気でもない。実際ここ数日、毎日外出してみたら、不思議と痛みも下痢も完全に収まって驚くほど。
(私は赤ちゃんを産めません)。
その言葉が、お義母さんの顔を見る度に喉まで出かけていた。でも何かが違う。今は言わなくても良い気がした。私が決め切れてないだけ。それはそれで良いじゃないって、私が私を許し切れてないだけ。
私は私を許してもいい。
幸せになってもいい。こんな状況の家族を持つ夫の元に嫁いでおいて何だけど、彼らの人生を背負う必要はない。
彼らも、幸せになっていい。
自らの力で、幸せになること。それって可能だと思う。インドの親戚はみんなスゴい大変な状況だけど、だからと言って、私が自分の事を我慢していても共倒れるだけ。
幸せな明日が来るか来ないかは、半分以上は自分次第。
(いやインドでは半分以下か)
私たちに子供は来なかった。でも私はこれから、私自身を大切に育ててみようと思う。どんな状況もそこからスタートして、いかようにも楽しめるのが人生だ。
満たされていた日本でのやり方は通用しないし、インドの基準に合わせたら発狂する。だったら誰に遠慮もいらないし、本当に好きにすればいいんだと思う。
好きな事をする。
やりたい事を先延ばししない。
誰にも遠慮しないでやる。
↑これで身体も痛くなくなるのなら、忘れずに続けようと思う。