嫌なものには蓋を開けよう | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

人との関わりや用事が増えたりして外界が活気付くほどに、自分軸が揺れ動くのを感じる。

 

どう感じるかと言うと、違和感や内面の不快感。

 

どういう違和感かと言うと、自分を置き去りにする違和感。

 

 

以前は、用事が増えることを喜んでいたかもしれない。忙しい忙しいと、自分以外に没頭すること、人のために尽くすことにしか価値を感じられなかった。表立って誰のためにも、何のためにもなっていない自分は無価値だと。

 

でも、それでは続かなくなって久しい。

 

 

人は大切にしたいけれど、自分を大切に出来ていない時にはやはりそれなりの結果になる。

 

人間の感情は揺れ動く。

 

あたかも「感情」が自分自身であるかの様にとらえがちだった。だから、「良い感情」が訪れた時は気分が良くて、「悪い」感情が湧いた時には罪人みたいにへこたれた。

 

感情に良し悪しはない。

 

感情は「私」ではない。

 

感情はただ訪れて去るもの。

 

 

瞑想を知ってから、感情の扱い方を知った。最近は実践できていなかったから、また少しグラついている。外界にじゅうぶん対応できずに、感情を抑圧してたかも。刺激の多い世界で自分軸を据えるのは、自分を強く「正当化」することとは大分違う。

 

「自己肯定」では言葉足らずな気がする。

 

 

どんな思考にも、執着したくないのに。

 

他人と比べて

 

劣っている様に感じたり、何も持っていないように見えたり、何にも値しないように、何も与えていないように感じたり。

 

それをもどかしく感じたり、悔しく思ったり、だからこうなんだと勝手に理由づけたり、やっぱり逆戻りかと錯覚し始めたり。

 

そんな状態なのに、さらに外界に刺激を求めようとさえする。

 

これでは悪循環。まるで依存症のループ。

 

 

外には求めなくても良い。

内側に、全部ある。

 

そのことを、腑に落とせていないから。

信頼して委ねられていないから。

 

 

自分という存在は、本当はこの世界のすべて。

私がどう思い、どう感じ、どう作っていくかで

この世界のすべてを反転することもできる。

 

この存在にどこまで開いていけるだろうか。

 

どんな醜い気持ちも、全てをややこしくする堂々巡りの思考も、八つ当たりでしかない一時の感情も、面倒だ退屈だとボヤくウソつきも。

 

本当は分かってる。

 

もう逃げたくない。向き合いたい。迎え入れたい。そっと優しく見守りたい。つたない自分を慈しみたい。しずかに微笑んで聞いてあげたい。嫌なとこも全部受け入れたい。それはそれで良かったんだよって。でももっといい方法があるよって。

 

そしたらきっと、気の済んだダダっ子みたいにケロっとなって、また楽しく遊び始めるだろう。そして自分の作る世界に夢中になれるんだろう。

 

雑念は誰にでもある。

 

人と比べることも、自分をおとしめるセルフトークも、信じられずにふてくされることも。

 

恥ずかしいことじゃない。

 

それよりももったいないのは、それに囚われてしまうこと。瞑想で習うのは、それらを「迎え入れて、こんにちはと挨拶をして、さようならと見送る」。それだけ。

 

良し悪しもない。

原因も理由もない。

過去もない。

トラウマも関係ない。

未来も知らない。

今、ここ、私。

 

その積み重ねでしかない人生。

 

 

夫にもっとこうしてほしい、あれはやめてほしい、こう言ってほしいと思い過ぎだったこの頃。

 

でもね。本当はどうだろう?

 

毎日笑顔でいてくれて、優しい言葉をかけてくれて、私の好きなものばかり買って来てくれて、半分くらいは夕食も作ってくれて、毎日仕事に行ってくれて。3ヶ月も一時帰国する私に文句も言わず、渡航準備や荷物やお土産のことまで気遣ってくれている。

 

何でも思い通りに操れるのは、自分軸じゃない。

黒魔術だった笑。

 

ちゃんと見て、慈しんで、受け取ってみよう。

 

ないものねだりの地獄を抜けよう。

 

今ここにあるいっぱいの幸せだけ

感じて受け取ることだってできるのだから。