人との関わりや用事が増えたりして外界が活気付くほどに、自分軸が揺れ動くのを感じる。
どう感じるかと言うと、違和感や内面の不快感。
どういう違和感かと言うと、自分を置き去りにする違和感。
以前は、用事が増えることを喜んでいたかもしれない。忙しい忙しいと、自分以外に没頭すること、人のために尽くすことにしか価値を感じられなかった。表立って誰のためにも、何のためにもなっていない自分は無価値だと。
でも、それでは続かなくなって久しい。
人は大切にしたいけれど、自分を大切に出来ていない時にはやはりそれなりの結果になる。
人間の感情は揺れ動く。
あたかも「感情」が自分自身であるかの様にとらえがちだった。だから、「良い感情」が訪れた時は気分が良くて、「悪い」感情が湧いた時には罪人みたいにへこたれた。
感情に良し悪しはない。
感情は「私」ではない。
感情はただ訪れて去るもの。
瞑想を知ってから、感情の扱い方を知った。最近は実践できていなかったから、また少しグラついている。外界にじゅうぶん対応できずに、感情を抑圧してたかも。刺激の多い世界で自分軸を据えるのは、自分を強く「正当化」することとは大分違う。
「自己肯定」では言葉足らずな気がする。
どんな思考にも、執着したくないのに。
他人と比べて
劣っている様に感じたり、何も持っていないように見えたり、何にも値しないように、何も与えていないように感じたり。
それをもどかしく感じたり、悔しく思ったり、だからこうなんだと勝手に理由づけたり、やっぱり逆戻りかと錯覚し始めたり。
そんな状態なのに、さらに外界に刺激を求めようとさえする。
これでは悪循環。まるで依存症のループ。
外には求めなくても良い。
内側に、全部ある。
そのことを、腑に落とせていないから。
信頼して委ねられていないから。
自分という存在は、本当はこの世界のすべて。
私がどう思い、どう感じ、どう作っていくかで
この世界のすべてを反転することもできる。
この存在にどこまで開いていけるだろうか。
どんな醜い気持ちも、全てをややこしくする堂々巡りの思考も、八つ当たりでしかない一時の感情も、面倒だ退屈だとボヤくウソつきも。
本当は分かってる。
もう逃げたくない。向き合いたい。迎え入れたい。そっと優しく見守りたい。つたない自分を慈しみたい。しずかに微笑んで聞いてあげたい。嫌なとこも全部受け入れたい。それはそれで良かったんだよって。でももっといい方法があるよって。
そしたらきっと、気の済んだダダっ子みたいにケロっとなって、また楽しく遊び始めるだろう。そして自分の作る世界に夢中になれるんだろう。
雑念は誰にでもある。
人と比べることも、自分をおとしめるセルフトークも、信じられずにふてくされることも。
恥ずかしいことじゃない。
それよりももったいないのは、それに囚われてしまうこと。瞑想で習うのは、それらを「迎え入れて、こんにちはと挨拶をして、さようならと見送る」。それだけ。
良し悪しもない。
原因も理由もない。
過去もない。
トラウマも関係ない。
未来も知らない。
今、ここ、私。
その積み重ねでしかない人生。
夫にもっとこうしてほしい、あれはやめてほしい、こう言ってほしいと思い過ぎだったこの頃。
でもね。本当はどうだろう?
毎日笑顔でいてくれて、優しい言葉をかけてくれて、私の好きなものばかり買って来てくれて、半分くらいは夕食も作ってくれて、毎日仕事に行ってくれて。3ヶ月も一時帰国する私に文句も言わず、渡航準備や荷物やお土産のことまで気遣ってくれている。
何でも思い通りに操れるのは、自分軸じゃない。
黒魔術だった笑。
ちゃんと見て、慈しんで、受け取ってみよう。
ないものねだりの地獄を抜けよう。
今ここにあるいっぱいの幸せだけ
感じて受け取ることだってできるのだから。