前回の「戦うか逃げるか反応、北インド編」からのつづきです。
時を遡ること、4月4日。ナヴラトリ祭の最終日。
いつもの様に出勤する彼を送り出し、
掃除と洗濯を早目に終わらせ、
午後からブログ編集に勤しもうかなー?と思っていた時。
事件はすでに起こっていました。
突然、部屋のドアがドンドンドン、と強く叩かれ、
びっくりして出ると、近所に住む彼の友人S君。
いつもの優しい笑顔とは打って変わって神妙な様子。。。
「説明は時間がないからしないけど、すぐに出かける準備をして。
A(私の彼)が30分後に帰宅するから」、と。
(てか、30分あったら説明できないか?と思い、)
いつもの小旅行用パックパックに手近な荷物を詰めながら、
何があったのかを少しずつ聞いてみた。
「Aから電話があった内容を話すから、落ち着いて聞いてほしい」とS君。
S君の話、そしてその後帰宅した彼の話によると、
彼のお母さんと彼の親戚の男性たち3人が彼の職場に来て、
彼の腕や肩を掴んで駐車場に連れて行き、
「今すぐ仕事を辞めてこのまま故郷の村に一緒に帰れ」と要求。
アパートに私を置いたままでそんな事は出来ないと彼が抵抗すると、
男性たちが彼の顔や腹部、背中に殴る蹴るの暴行を始めたとの事。
彼は必死で抵抗し、自己防衛で義理の兄Rを一発殴り返したらしい。。。w
その朝来て行ったシャツは着られない程に破られ、
駐車場に停めていた彼のバイクも取り上げると脅され、
彼の携帯電話も彼のお母さんに奪われてしまったと言う。
その後一度、彼は駐車場の地べたに座り込み、
ちょっと考えたいからタバコを1本吸わせてくれ、と言ったらしい。
彼の後方では3歳年下の実の弟も、彼を見張っていた。
しかし、一瞬の隙をついて実母の握る腕を振り払った彼。
自慢の駿足?で、日ごろ慣れ親しんだ路地を駆け抜け、
必死で角にある寺院に逃げ込み、そこにいた人に携帯を借り、
少し先の近所に暮らす友人の電話番号を思い出して連絡。
寺院からオートリキシャに乗って彼の家までたどり着き、
ビリビリに破れたシャツを友人のTシャツに着替えて、
午後の2時頃、そこから私の待つアパートに帰って来た。
私たちがどこで暮らしているかは、彼の母も親戚もまだ知らない。
そもそも、まだ軽々しく私たちの住所を伝えないでいたのは、
外国人である私をちゃんと紹介できる様に、
お母さんや親戚にもショックを与えない様にと、
彼がタイミングを思ん図った上での判断だった。
どういう経緯かは知らないが、
いよいよ彼のお母さんの堪忍袋の尾が切れたらしく、
この日、親戚の男衆引き連れての強行に到ったらしい。
(もうね、新聞の三面記事みたいな表現しかできません。)
職場での昼間の強行に、他の同僚や上司を含め、
普段は平和なオフィス街がギャラリーで騒然となったらしい。
彼はある大手パソコンメーカーのセールスマン。
成績は優秀で、職場ではいつも売り上げトップ。
デリーのインド本社からも最近表彰された程でした。
いつどんな時間に顧客から電話がきても迅速に対応し、
マネージャーやオーナーからの信頼も厚く頼られる存在。
休日は平日の週1日だけ。
毎朝毎朝、真面目に職場に出かけ、帰宅すると、
「今日の売り上げは○台だったよ!」
と嬉しそうに話してくれる彼。
そんな彼の日ごろの努力を身近で見ていただけに、
私は彼が親戚にリンチ食らったのも怒り心頭!だったけど、
それ以上に彼が職場で同僚や顧客の前で侮辱を受た事は、
本当に許せないと、その時思いました。
こんな事、日本では当然あり得ない訳で。
いやもう、刑事事件でしょ?即通報・現行犯逮捕、
そんでもって懲役でしょ???と思う訳で。。。!!!
顔や肘、背中に殴られた傷を負いながら帰宅した彼は、
私に経緯を話しながら、少し泣けてきたみたいだった。
「どうして僕の家族は僕を理解しようとしないんだろう?
どうして僕を殴るんだろう?バイクと携帯まで勝手に取り上げて」と。
そ、そ、そ、そうだよね???としか言えない私。
「こんな事する位だから、
今度はここ(アパート)も探り当てて来るかもしれない。
どこかに逃げなきゃ。どうしよう。。。?」と彼。
でも私にはこれ以前からあるプランがあり、
どこに行くかと言われれば、行き先は決まっていた。
そもそも何も悪い事していないのに、逃げるなんてできないし。
だったらこの際、所要を済ませてしまおうという考え。
「次のバスで、デリーへ行こう」と、私。
職場にも戻れないのなら仕方がないし、
会社には後で電話を入れるとして、
まずはバススタンドへ急ごう、と。
そしてごく親しい友人S君とM君2人には経緯と行き先を伝え、
スタンドから長距離バスに乗り、
一路デリーを目指すことになりました。
2人で力を合わせて、精一杯、毎日を生きているつもりでした。
でもそれは、見方を変えると自分たちよがりだったのかもと、今は反省もしています。
チャンディガールからデリーまではおそよ5時間の旅。
窓の外では沈む夕日が珍しく現れたうろこ雲に反射し、
今はまだ見えない2人の行く末を予兆したかの様な、
ドラマチックな色と光のスペクタクルを見せていました。
いつもは雲ひとつない空なのに。
車中私たちは2人とも無口で、
ただただ、行く末を案じる気持ちでした。
好きになって、一緒になりたいだけ。
そんな自分たちの素直な思いを信じようと、
改めて想いを強くしていました。
この話は次回のブログ「4月5日 ニューデリー」へ続きます。
休日にはツーリングに連れていってくれた、彼の大好きなバイク。
この後無事に彼の元に戻りました。ハラハラしましたが。。。
※インドでの出来事とはいえ、日本の読者の皆さんには理解しがたい、ともすると許しがたい内容だったかもしれません。今回書いた出来事は、その後私も含め双方の話し合いの元に解決に向かっています。
また、北インドの農村地帯の慣習や考え方は、現代の日本や先進諸国とは大きく異なるところがあります。かつての日本がそうであった様に、絶対的な家父長制度を未だに重んじる地域が多く、その価値観に基づいての言動は、到底私の理解するところではありませんが、このことを書くことで私自身の記録としてはもちろん、私たち2人を含め今後のインドと日本の相互理解に繋がればという思いです。