宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -34ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

$昭和を話そう、BOSSのブログ。-ハローミスターモンキー

昭和のディスコと言うと、バブル時のジュリアナやマハラジャを連想されがちだけれど、それは違う。ディスコブームは、70年代初めのソウルミュージックに始まる。一気に開花したのは、75年ヴァン・マッコイの「ハッスル」、そしてKC&ザ・サンシャイン・バンドの「ザッツ・ザ・ウェイ」あたりだろう。ソウルと言えば、スタイリスティックスかKC&ザ・サイシャイン・バンドだったあの頃、ディスコはロックを抑えてブラックミュージックが完全に占拠していたのだ。まだまだ小さな箱(ディスコ)も多く、アルコール以外の飲み物も置いていたから、未成年でも入れた時代。なのに、入れそうで入れなかった時代。普通の大学生やサラリーマンが入るようになったのは、いつ頃からか ? きっと、こんな曲が流行り始めた78年頃からだと私は思う。写真のレコジャケはアラベスクの「ハロー・ミスター・モンキー」。ディスコサウンドを明るく仕上げた、と言えばわかりやすい。同年「レッツ・オール・チャント」とともにヒットし、ディスコの大衆化を加速させた。その後、Y・M・Oのテクノポップへとサウンドの流れが変わった頃から私は行かなくなったけれど、ディスコはすっかり大衆のものになってしまった。大衆に迎合した時、どんなカルチャーも終わりを迎える。ディスコという昭和の文化も、そうしてバブルとともに壊れたのかもしれない。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-フィンガーメガネ

太陽ギラギラのこの季節、紫外線対策にサングラスはかかせない。しかし、いつだっただろうか、サングラスを初めてかけたのは・・。思い起こせば1971年、「シェリーに口づけ」を歌うミッシェルポルナレフを真似てかけたのが、初めてかもしれない。ただ、当時はまだサングラスの評判はあまりよくなかった。それがポピュラーになったのは、73年「個人授業」で大爆発したフィンガーファイブのおかげだ。写真の「フィンガーメガネ」は、あの頃のアキラの人気に便乗して駄菓子屋で売られていたパチもん(偽もの)のサングラス。アキラのような少年が描かれているところが、なんとも笑える。フィンガーファイブと言えば、私は意外と「恋のアメリカン・フットボール」が好きだった。妙子が真面目な顔をして♪どちらもどちらも大好きよ 私の心は決められない・・♪とソロで歌うところも、なんだか不思議にイヤじゃなかった。タッチダウンという言葉の響きに魅了され、時代はアメリカンフットボールブームへと突入した。番号と肩パットの入ったトレーナーを着て、サングラスをしながら、♪吹き抜けていく熱い風に きめるタッチダウン!!♪と、太陽に向かって歌っていた。今思えば、ラグビーとのルールの違いもわからなかったのだけれど、昭和のあの時代は、それはそれでよかった。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-伊丹幸雄

アイドル時代の幕開けとなった1972年には、「新御三家」というメンズのスーパーアイドルたちも登場した。それは永遠のイケメンアイドル、野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹の3人なのだ。けれど、あの頃いちばんフレッシュだったメンズアイドルはと言うと、私は伊丹幸雄の名を挙げる。爆発的にヒットしたデビュー曲「青い麦」は、当時郷ひろみの甘ったるさよりも、もっとミルキーだった。♪キミに会えた日から ボクは恋のトリコ キミの側にいたくて 胸は燃えるばかりなの・・♪という歌詞の「ばかりなの・・」という言葉を男子が使う、その新しい時代の到来を私は伊丹幸雄に感じていた。写真のレコジャケは4曲目、73年の「恋のおもかげ」。この頃までは、新御三家にピタリと迫り「四天王」とも呼ばれていたくらい、人気もあった。いつの間にか、新しい時代のセクシャルさは郷ひろみのお家芸となり、カブる伊丹幸雄の存在はトーンダウンしていったような気がする。76年、ロックバンド ローズマリーのヴォーカルとして加入、「可愛いひとよ」はディスコを中心にヒットした。アイドルロックバンドというジャンルも新しかったけれど、それもまたレイジーの登場によって、カブってしまった。似た感じでもいいじゃないか、と今なら言えるけれど、カブったアイドルは消え去るのみ。昭和には、そんな掟があったのかもしれない。

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