宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -33ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

$昭和を話そう、BOSSのブログ。-ウルトラセブン

高校時代を神戸で過ごした。住んでいた街からは大阪の方が近かったのに、どうして神戸を選んだのか? 理由はカンタン、憧れていたからである。そもそもは、1967年放送開始の「ウルトラセブン」にさかのぼる。第14話「ウルトラ警備隊・西へ」の舞台となった神戸の街に、小学校低学年の私はすっかり心酔してしまったのだ。六甲山に出現したスーパーロボットとの死闘は2週に続き、本当ならセブンの危機にドキドキするはずだけれど、神戸の街に夢中だった。クールに響く機械音とともに、最期は神戸港の海底に沈んでいくロボットの悲哀。そこに、何故か都会性を感じてしまったのだから、始末が悪い・・。15歳の冬、どこかに閉まいこんでいた神戸への憧れが突如甦ったのだろう。どんなドラマも、舞台の中心は東京。どんなヒーローも、東京で活躍する。たまに出てくる関西は、変な大阪弁だったり、妙に関西的だったりして子供心にガッカリした。しかし、セブンで描かれた神戸の街は、限りなく美的だった。東京に対するコンプレックスが、ただ子供の目にそう映させただけかもしれない。後にキングジョーという名前だったと気づいたけれど、私には神戸のロボットという呼び方の方が、ずっとしっくり馴染んでいた。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-横尾忠則

70年代は大阪万博でスタートした。毎日が劇的で、出逢うもの全てが新しかった。なぜ、あんなにもあの時代は輝いて見えたのだろう? それはきっと、日本という国そのものが青春だったからだ。進歩する明るい未来。それだけに、その青さを、その未来を憂う人々もいた。三島由紀夫や寺山修司。そして、写真のポスターを手掛けた横尾忠則もそのひとりだった。70年、平和を闊歩する若者に横尾忠則は「少年マガジン」の表紙で問いかける。平和とは? 人生とは? 矜持とは? 星飛雄馬をモノクロで描いたその表紙の少年マガジン欲しさに、うどん屋の友達に頼んで、店の一冊をチョロまかしてもらったことを憶えている。(けど、そのマガジンはどこにいったんだろう?) 写真のポスターに登場する高倉健や唐獅子牡丹も有名だけれど、ピラミッドやUFOが飛び交う不思議な世界もまた彼だった。その多色のアートが、後に私をグラフィックデザインの世界へと誘うことになるのだけれど、当時はまだデザインと言うと、ピエールカルダン?と聞かれたくらい、アパレルだけがデザインだと思われていた頃。横尾忠則の登場は、私にさえ勇気を与えてくれた。1967年、寺山修司著の「書を捨てよ、町に出よう」の表紙も横尾忠則作。この歳になると、私にもわかってくる。「スマホを捨てよ、町に出よう」そう、叫びたくなる。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-クルマ

60年代に訪れたマイカーブームは、当時の私の家にもやって来た。親父がホンダN360を買ったのが1967年。まだガレージともいえないスペースに、その自慢の一台は入庫された。舗装されていない道路に置かれた新車は、どこかぎこちなかったのを憶えている。時代がファミリーカーを目指す中、異彩を放っていたクルマと言えばやはりスカイライン2000GTなのだ。写真のモデル(左)は、65年のスカイライン2000GT-Bタイプ。後にプリンススカイラインと呼ばれたけれど、この頃のスカGはまだ丸みがあって4ドアの分、優しいイメージもあった。写真(右)は、69年のいすずベレット1600GTR。日本のアルファ・ロメオと評価されつつも、いつしか消えていった。60年代から70年代にかけて、消えた幻の名車はたくさんある。ギャランFTOとGTO、ランサーGSR、初代カローラレビン、スプリンタートレノ、サバンナ、シルビア、バイオレット、スターレット、さらにスズキフロンテ、ホンダZ、コスモスポーツに117クーペ・・。全ては時代の要請で誕生し、進化とともに役目を終える。「山並みと青空を区切る稜線」という意味のスカイラインは、まだ進化を続けているけれど、今では「社会の過去と今日を区切る稜線」として、どこか終わりのない道を疾走しているような、私にはそんな気がする。

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