宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -21ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

冬の稲妻

フォークグループ アリスの存在を知ったのは、1972年。「明日への讃歌」という、どちらかと言えば女性っぽい感じの優しい曲だったけれど、ヒットした印象はなかった。それよりも、「ヤングタウン」というラジオ番組のDJとして、アリスの谷村新司は人気を博していた。フォークソングが下火になり始めていた頃、話術の面白さだけでチンペイとベーやん、つまりアリスは生き残っていたように見えた。時代の音楽はユーミンへと移行し、フォークの旋律もすっかり影を潜めた77年。ジュリーの「勝手にしやがれ」が大ヒット、歌謡曲が最高潮の盛り上がりを見せていた頃だった。写真のレコジャケ「冬の稲妻」が登場したのは。この曲を聴いた時の印象は、これはフォークソングではない。ドラムが入っているけれど、詞やメロディはロックでもない。それが、ニューミュージックという領域を生んだのかもしれない。78年「ジョニーの子守唄」、「チャンピオン」と大ヒットは続き、アリスは不動の地位を歌謡界に確立した。「チャンピオン」に至っては、もはやニューミュージックかどうかさえ、その線引は危うかった。しかし、アリスにとってそんなジャンルなど、どうでもよかったのだろう。後の「いい日旅立ち」や「昴」を聴いて、ジャンルなんて関係なく、いい曲はいいと思わせる。ジャンルを問わない。それが、アリスの残した足跡なのかもしれない。今年ももうすぐ、「冬の稲妻」が到来する。

人気ブログランキングへ
センチメンタル

歌手になりたい頃があった。歌謡曲全盛の時代。話題の曲はいち早く聴いたし、歌番組もさんざん観ていた。もちろん、日テレの「スター誕生」を見逃すはずもない。昌子、淳子、百恵の花の中3トリオもすでに高校 2年になっていた1975年だった、岩崎宏美という歌手が誕生したのは。デビュー曲は「二重唱」と書いて「デュエット」。特に華があるということはなかったけれど、歌はうまかった。2曲目の「ロマンス」もヒットした後、写真のレコジャケ「センチメンタル」へとリリースは続く。どうしてだろうか ? その 3つの曲を聴いて、私は初めて歌や歌手よりも、タイトルの方に惹かれていったのである。もっと言えば、「デュエット」、「ロマンス」、「センチメンタル」と続いたシリーズの横文字に心が震えた。華があるとは思えない少女の印象を、この 3つの横文字のタイトルが得たいの知れない存在感に変えていく・・。それは単なる作詞家の仕業ではなく、「阿久悠」という戦略家の仕業なのだ。♪ブルーの服をバラ色に変えてみたの そんな気分よ 17歳 ♪と歌う岩崎宏美は、その時から 花のトリオとはまた別のスターの階段を駆け上がっていった。そして私も、歌手ではなく、業界の裏方に惹かれていったのだろう。売るためには、コンセプトを創ること・・。その時、阿久悠が教えてくれたその仕業をいつか真似したいと。

人気ブログランキングへ
菅原文太

映画館を出た時、ほとんどの男性が肩を揺すりながら、ゆっくりと煙草をくゆらしていた。眉間にしわを寄せ、広島なまりで叫ばんばかりに・・・。その映画こそ、1973年に東映系で上映された「仁義なき戦い」なのだ。かつて観た、「お控えなすって・・」の任侠映画ではなく、それはまさに仁義なき抗争を繰り広げる実録物のやくざ映画だった。主役の名は広能昌三。菅原文太が演じたのか、広能昌三が降臨したのか、それさえわからなくなるほどのはまり役だっただろう。私なんて、当時は本物の人かと思っていたほどに。写真のレコジャケは、「仁義なき戦い」完結編の挿入歌「吹き溜りの詩」なのである。♪風がからだを吹き抜けて、後は渇いた夜ばかり。骨の髄までやせこけた、影を引きずる吹き溜り♪というシビレタ歌詞が、切ない横顔にぴったりマッチしていた。縦縞のスーツが日本一似合うと思っていたら、しかしその2年後にはすっかり「トラック野郎」になっていた。75年から始まった映画ではあるけれど、今度はトラック野郎一番星の星桃次郎役。ドキュメントかと思うほどのシリアスな演技からコメディまで、菅原文太は徹底的に演じきる。役者って、ホントに凄いと感じた数少ない人だった。私の青春時代を輝かせた菅原文太兄い、お疲れさま。そして有り難う。

人気ブログランキングへ