暑い・・・もう夏ですね。
夏は好きじゃないけれど、入道雲が育つ午後、突然の雷が響く夕方、
ざわめきが残る夜は情緒があって好き。
夏の歌と言えばなんですかね・・・
「夏が過ぎぃ~風あざみ~」って過ぎちゃったのかよ
どことなく頭に残っているメロディ
「はしゃぎすぎてる夏の子どもさ~♪」
・・・だれの曲だっけか?まぁいいや。
普通はチューブとかサザンなのかな。最近だとオレンジレンジか?
でも、そんな高テンションの高い夏は過ごしたことねっぺなぁ。
どうしてもおらは 夏 → 暑い → けだるい → アンニュイ となってしまう。
有名所だと 福山雅治「Squall 」か。でもカッコ良すぎるから省略。
あとなんか好きだったな、大浦龍宇一「夏の午後」
おろ・・・でも 歌詞 みると案外つまらない詩ですな。
あぁ、でもこれ小林武史だったんだ・・・。この人、アンニュイさを書かせたらうまいなぁ。
あとは ドリカムの「あの夏の花火 」 か・・・
おぉ・・・歌詞いいなぁ。情景が浮かぶ。ま、こんな思い出ないけどさ☆
暑いからブログもだるだるで。
下記に書いたように、授業においてゲームは大切な要素になってくるようだ。
そこで、どんなゲームがいいかを考えなくてはならないらしい。
「どこが子どもにウケるのか」そのポイントを見極めることは、大人にとって困難な作業だろう。
NHKでカードゲームを開発しているゲームメーカーのドキュメンタリーが放映されていた。
開発者はパソコンに向き合って作業するばかりでなく、ショッピングセンターやイベントで子どもの反応を観察して現場の作業にフィードバックしていた。
その観察眼は鋭く、子どもがキーを無造作に叩くときは難易度が高すぎることや、子どもがゲームの最中に思わず上げる言葉を開発のヒントに結び付けていた。
全く異なる職種でも、その仕事術には相似性がある。
それを生かせるかどうかが「能力」なのだろう。子どもが子どもらしくない。そんな現象が蔓延しているような気がする。
しかし、考えてみたらそれは大人が望んだことではなかったか。
子どもを理解しづらい対象と思うのは、子どもと向き合うことができていないからではないか。
子どもを小さな大人として扱い、早く大人になるように矯正してきたのではないか。
子どもを教え込むのは容易い。しかし、一緒になっておどけることは難しい。
子どもの授業参観などで教室を覗いてみると、きっと英語の授業は驚くだろう。
その理由は英語の授業がこの10年間で全く様変わりしているからだ。
従来の英語の授業は「書く」「読む」の指導が中心だったが、現在は「話す」「聴く」に重点が置かれている。
具体例をだすと、 am is are と教えていても be動詞 という言葉はまず出てこない。
文法からことばを教えるのではなく、ことばから文法を考えさせるからである。
また、授業では 「活動」 の時間があり、そこでゲームなどを行いながら言語を使用させる。
逆にいうと、事前に言語の指導を十分にしておかないと生徒はゲームを楽しむことができないのである。
英語科教員は沢山のゲームのネタをもっていて、生徒を楽しませるようにルールの設定や難易度などを細かく配慮している。
勉強は机に座っておとなしく本を読む・・・ということは勿論大切だろうが、基調が変わり、授業の風景も様変わりしているようだ。

