始まっていたのね・・・ウインブルドン


ワールドカップで気付かなかった。


今年こそヘンマン優勝で大盛り上がり!!


と思ったらすでに2回戦でフェデラーにストレート負けしてるし・・・てかヘンマン老けたな・・・


お、今年から審判の服装が変わっている!!爽やかなブルーのシャツだ。


伝統の緑のスーツは無くなったのね。ちと寂しい感じも。


今知ったけど(おい)英スペルだとracquetなのね。かっくいー。

暑い・・・もう夏ですね。

夏は好きじゃないけれど、入道雲が育つ午後、突然の雷が響く夕方、

ざわめきが残る夜は情緒があって好き。


夏の歌と言えばなんですかね・・・

「夏が過ぎぃ~風あざみ~」って過ぎちゃったのかよ

どことなく頭に残っているメロディ

「はしゃぎすぎてる夏の子どもさ~♪」

・・・だれの曲だっけか?まぁいいや。


普通はチューブとかサザンなのかな。最近だとオレンジレンジか?

でも、そんな高テンションの高い夏は過ごしたことねっぺなぁ。


どうしてもおらは 夏 → 暑い → けだるい → アンニュイ となってしまう。


有名所だと 福山雅治「Squall 」か。でもカッコ良すぎるから省略。


あとなんか好きだったな、大浦龍宇一「夏の午後」

おろ・・・でも 歌詞  みると案外つまらない詩ですな。

あぁ、でもこれ小林武史だったんだ・・・。この人、アンニュイさを書かせたらうまいなぁ。


あとは ドリカムの「あの夏の花火 」 か・・・

おぉ・・・歌詞いいなぁ。情景が浮かぶ。ま、こんな思い出ないけどさ☆


暑いからブログもだるだるで。

下記に書いたように、授業においてゲームは大切な要素になってくるようだ。

そこで、どんなゲームがいいかを考えなくてはならないらしい。

「どこが子どもにウケるのか」そのポイントを見極めることは、大人にとって困難な作業だろう。


NHKでカードゲームを開発しているゲームメーカーのドキュメンタリーが放映されていた。

開発者はパソコンに向き合って作業するばかりでなく、ショッピングセンターやイベントで子どもの反応を観察して現場の作業にフィードバックしていた。

その観察眼は鋭く、子どもがキーを無造作に叩くときは難易度が高すぎることや、子どもがゲームの最中に思わず上げる言葉を開発のヒントに結び付けていた。


全く異なる職種でも、その仕事術には相似性がある。

それを生かせるかどうかが「能力」なのだろう。

子どもが子どもらしくない。そんな現象が蔓延しているような気がする。


しかし、考えてみたらそれは大人が望んだことではなかったか。


子どもを理解しづらい対象と思うのは、子どもと向き合うことができていないからではないか。


子どもを小さな大人として扱い、早く大人になるように矯正してきたのではないか。


子どもを教え込むのは容易い。しかし、一緒になっておどけることは難しい。



子どもの授業参観などで教室を覗いてみると、きっと英語の授業は驚くだろう。

その理由は英語の授業がこの10年間で全く様変わりしているからだ。


従来の英語の授業は「書く」「読む」の指導が中心だったが、現在は「話す」「聴く」に重点が置かれている。

具体例をだすと、 am is are と教えていても be動詞 という言葉はまず出てこない。

文法からことばを教えるのではなく、ことばから文法を考えさせるからである。


また、授業では 「活動」 の時間があり、そこでゲームなどを行いながら言語を使用させる。

逆にいうと、事前に言語の指導を十分にしておかないと生徒はゲームを楽しむことができないのである。

英語科教員は沢山のゲームのネタをもっていて、生徒を楽しませるようにルールの設定や難易度などを細かく配慮している。

勉強は机に座っておとなしく本を読む・・・ということは勿論大切だろうが、基調が変わり、授業の風景も様変わりしているようだ。

公園で紙飛行機を飛ばすことに夢中になっていたら、周りの人が叫んだ。

「きれいねぇ」

はっと気付かされた瞬間であった。

白い翼が空に浮かんで、芝に影をつくる様は

確かに綺麗だった。


子どもの頃は感じていたことだ。

醜いものに目が慣れすぎて無関心になっているのかもしれない。


悪い景観100景


コメントが痛快。無関心な者をひきつけることほど難しいことはない。

Wカップでクロアチアの町が放送されていた。

彩度が等しい街の景観は、心を落ちるかせるものであった。

ノンノン。童心を大切にしようとしているだけさ。


職業柄必要なのさ・・・ということにしとこう。


ふと思い出した。大好きだったこと。祖母に買ってもらった1冊はなんだか、大人の雰囲気がした。




hikouki