「くりから焼きの”くりから”の語源を教えて」ー。
以前、知人から、こんな疑問を投げかけられた
これまで何気なく、食べていた”くりから”焼きはいわゆる『鰻を捌く際に出る端切れを串刺しにしたもの』だが、その由来については、考えもしなかった。
早速、ネットやらで『くりから』をいろいろ調べると、
『岩の上に立てた剣に竜がまきついている形』
『火炎の中で黒い竜が剣に巻きついた図』
『不動明王の化身』など、記載されている。
不動明王の化身
さらに検索するとあるHPに
『仏の教えを説く不動明王が、外道(仏教以外の教えを説く者)と論争した時剣に姿を変えた。それを見た外道も負けじと剣に変身。不動明王はさらに倶利迦羅龍王(くりからりゅうおう)に変身し、外道の剣を四つの手足で押さえつけ、呑み込もうとして屈服させた』と記載されている。
<参考画像/『倶利伽藍竜王』(宝性院/栃木県)>
なるほど
おおまかな由来はわかったが、ここで新たな疑問が浮上した。誰が一番最初に、知ってか知らずかそんな重みのある名前をつけたのか?さらに、そのくりから焼きはいつ、商品となって出てきたのか?まだまだ、謎は深まるばかりだ・・・。<情報求む/うなっくすも調査中>
ちなみに以下、”くりから”に関するものをピックアップしましたよ
古代の官道源平合戦 倶利伽羅峠(石川県・富山県)
石川県津幡町と富山県小矢部市にまたがる倶利伽羅(くりから)峠。標高は276.8メートルとさほど険しくはない。ふもとから眺めてみても、りょう線はなだらかに広がっている。「峠は津幡の宝であり、全国発信をしていける名所」。同町の観光ボランティアガイド「つばたふるさと探偵団」団長の橋安治さん(五九)はいう。歴史の重みがそれを物語っている。
古代律令制の時代、整備された七官道のひとつ「北陸道」がここを通った。江戸時代には加賀藩の参勤交代の行列は二百回近くも往来した。何より峠を語るうえで真っ先に浮かぶのは、源平合戦「火牛の計」。
源平盛衰記によれば、1183年、平維盛の軍勢と対峙(たいじ)した源義仲は相手が寝静まった夜半、角にたいまつを付けた四、五百頭もの牛を走らせる奇襲をかけて、見事大勝を収めたという。峠はその古戦場でもある。
津幡町竹橋から小矢部市桜町にかけての旧北陸道沿い12.8キロは、5年前に建設省の「歴史国道」に認定された。文化的に価値ある古道を保存しようという試みだ。一部は歩行者専用の散策路に整備された。クヌギやハンノキなどがうっそうと茂り、いにしえの峠道の趣を味わえる。
「くりから」という響きはどことなく不思議だ。語源はインドのサンスクリット語。黒い竜を意味し、不動明王の化身の一つでもある。奈良時代、この地で悪さをしていた大蛇を退治しようとインドの高僧が祈りをささげると、天から宝の剣が降って蛇に突き刺さり、蛇は剣に巻き付きながら天へ昇っていった……。
倶利伽藍峠【くりからとうげ】
倶利伽藍不動があるので倶利伽藍峠と名がついた。昔は石川県に抜けるのにこの峠を登らなければならなかったが、今は旧国鉄のトンネルを利用した倶利伽藍トンネルがあって楽だ。「くりから」の語源はインドのサンスクリット語。黒い竜を意味し、不動明王の化身の一つでもある。奈良時代、この地で悪さをしていた大蛇を退治しようとインドの高僧が祈りをささげると、天から宝の剣が降って蛇に突き刺さり、蛇は剣に巻き付きながら天へ昇っていった。
木曽義仲による、最初の源平の戦いがあった古戦場である。源平合戦「火牛の計」というが、『源平盛衰記』によれば、183年、平維盛の軍勢と対峙した源義仲は相手が寝静まった夜半、角にたいまつを付けた四、五百頭もの牛を走らせる奇襲をかけて、見事大勝を収めたという。
いろいろとネットで調べると出てくる、出てくる・・・。また、何かの機会に取り上げますね、『くりから』。
なお、ウナギ嫌いの方に、この『くりから焼き』はおすすめです。
お塩を振って、かるく焼くだけ☆
”美味しい、美味しい!”と大半の方は、ウナギが食べられる様になります