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めし前にもう1社、恵林寺から大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡)に。

神社前の駐車場に停め、少し歩きますが、重文の鳥居を見に行きます。


重要文化財
窪八幡神社鳥居
指定年月日 昭和24年2月18日
管 理 者 山梨市北654番地
所 有 者 窪 八 幡 神 社
神社本紀の記録によると、天文4年(1535)、武田信虎によって42才の厄払祈願のため鳥居と石橋が建立されたととあり、現在の鳥居はこのときに再建されたものと考えられる。
親柱の前後に面取り角柱の控柱が立ち、親柱と控柱間は上下二本の笠木つき貫を通して連結され、いわゆる両部鳥居または四脚(しきゃく)鳥居と呼ぶ形式となる。
木材はそのほとんどに目の混んだ杉が使われており、親柱を連結する貫だけは節の多い末が使用されている。
高さは約7.4m、横幅が広く約5.91mである。親柱は太い円柱で直径約55cmあり、自然石礎石上に内側に転び(傾斜)をつけて立てる。柱頂には台輪がつき、島木および笠木を受ける。島木、笠木には心反り(しんぞり)があり、笠木上は屋根板を張り銅板葺とした屋根をかける。島木下方の貫は柱を貫通し、両端の花は長く外方に突き出している。島木と貫の中央部には額束(がくづか)を立て、額束正面に「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられている。
この鳥居は、均整のよくとれた形のすぐれている木造鳥居であり、一般的には造替の頻度の多い建造物のため、造立年代が室町時代まで遡る例は珍しく、現存の木造鳥居のなかでも最も古い遺構としてきわめて価値が高い。
平成13年3月30日 山梨県教育委員会 山梨市教育委員会 -案内板より


創建当初、大井俣神社と称していた為、鳥居の社号額もその様になっている。


窪八幡神社
窪八幡神社は、『大井俣神社本記』(承応2年〔1653〕、当社蔵)によると、清和天皇の勅願によって貞観元年(859)に九州宇佐八幡宮が勧請されたのがはじまりと伝えられています。境内には、室町後期の神社建築が集中するほか、同時期の境内古絵図や鰐口・木造狛犬・三十六歌仙図など貴重な文化財が多く残されています。これは、永正13年(1516)及び大永元年(1521)の駿河勢侵攻による建物の焼失と、信虎・晴信(信玄)による戦国大名武田家の勢力拡大に伴う外護が要因となって、この時期に大規模な造営が行われたことによるものとみられています。
周辺には、戦国期の史料として名高い『王代記』が書かれた別当上之坊(入幡山普賢寺)跡地をはじめ県指定文化財の『木造阿弥陀三尊像』が安置される神宮寺、坊や社家といつた神仏習合遺跡が残されています。 -案内板より

堀に架かる石橋を渡り、神門をくぐると、神池に架かる石橋です。


重要文化財
窪八幡神社神門附石橋 昭和24年2月18日指定
神門は、境内の正面入口に東面して建ち、総門とも呼ばれます。神社本記によると、永正8年(1511)、『王代記」によると天文11年(1542)の建立とされ、その後明和6年(1769)に修理されていることが箱棟の墨書によって明らかになっています。
四脚門切妻造、桧皮葺。神門の前の堀には軽く反った石橋がかかっています。 -案内板より


狛犬の横を通り、石段を上がります。石垣も良い感じです。


凄い拝殿が見えてきました。
つづく
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