北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
美味いラーメンを食し幸せ気分で訪れたのは、鎌倉時代、甲斐源氏の一族で
ある武田信光(石和五郎)が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、中世には甲斐国
守護武田氏の歴代当主が尊崇。近世には甲斐を領有した徳川家康により新た
に社領を安堵されるなど、歴代甲斐国主に尊崇を受けた「石和八幡宮」です。


石和八幡宮
第十二代景行天皇の御弟 稚城瓊入彦命は東国視察からやがて甲斐の国に入られここに行宮を建て一年有余滞在された。 時は下って今から八百余年前甲斐の国北部に甲斐源氏が勃興しやがて石和の地に進出した武田信光は石和五郎信光と称し建久三年(1192) 先の古社に鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を勧請し石和八幡宮と奉称し甲斐源氏の総鎮守と定めた。 造営に当たっては鎌倉の将軍・源頼朝から五百貫の寄進と「うつしては 同じ宮囲の神垣に 汲みてあいかむ 美たらしの水」の和歌の奉納があったと伝えられている。 以来武田氏の尊崇極めて厚く源氏が最も重んじた「射法相伝」の儀式はすべてここで行なわれた。 天正十年(1582)織田信長が甲斐に侵攻し武田氏は滅亡した。 その折当八幡宮は焼き討ちにあい社殿社尽く失った。 翌年徳川家康が入甲して近郷九ケ村に十八石の神領を献じて再建した以来浅野長政はじめ歴代領主・甲府勤番支配・代官はここに参拝することが例とされた。 当時本殿は三社別殿で中央に八幡大神左右に上古二神が祀られていたが安永三年(1774)の改築で一棟に合祀された。 往時は総回り五十間に及ぶ泉水に築山・石橋を配し杉檜の巨木の森に十三の摂社と神宮屋敷を具えた荘厳な社であった。 明治四十年の大水害で辛うじて本殿拝殿随身門は残ったものの他は流失埋没し森は枯死し荒廃してしまった。 氏子の長年の努力で復興し祭祀が守られてきたが平成十八年十月髄身門を残して焼失した。 唯一豊臣時代から江戸時代の絵馬の献額十一点(市指定文化財)が現存している幸い 広く地域の奉賛を得て新社殿が造営され平成二十一年十二月遷座式が挙行された。
当八幡宮は、国家鎮守・衆生済度の菩薩神・聖母菩薩神の八幡信仰の社(やしろ)であるとともに甲斐の国発祥の上古の時代からの歴史を秘めた氏神杜(もり)である。 -説明板より

ご祭神は、
応神天皇
比売大神
神功皇后
天足彦国押人命
稚城瓊入彦命 で、ございます。

その創建は古く、景行天皇二十七年、当地に深き所以のある大和朝廷の
貴人の神霊二柱と物部氏遠祖十神を祀り、官知物部神社として、この郷
一帯の鎮守としたのに始まると伝わります。

拝殿



平成十八年十月に焼失した為、平成二十一年十二月に再建されたので、
まだ新しく綺麗な社殿です。

本殿と幣殿

絵馬殿(八幡神社と絵馬)
建久3年(1192)石和五郎信光が、景行天皇時代に祀られた物部神社の社地に、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を勧請して祀った社で石和八幡宮と称する。 祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后である。 正治2年(1200)信光が、兄武田有義の死により武田宗家をうけ、武田信光と称し甲斐守護職となり政庁を石和に置いてから、 永正16年(1519)信虎が館を躑躅ヶ崎に移すまで武田氏の尊崇を受けた。 天正10年(1582)織田氏の兵火により、社殿はすべて灰燼に帰したが、翌11年徳川家康の保護を得て再建された。 浅野長政いらい歴代の国主、甲府勤番支配は参拝するのを例とした。 拝殿には、徳川時代のものと思われる絵馬多数が奉納されており、鷹図・朝鮮王宣和との講話図・伊勢神宮湯立津などをふくめ11点が市指定文化財となっている。 -案内板より


和珥臣社

稲荷大明神
無人社で御朱印は頂けませんでした。
さぁ、本日の旅泊地に。

本日の旅泊地・釈迦堂PA 車中泊
第81日目終了
本日の走行距離 59km
つづく
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