北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
甲府城中心部を見終え、線路の北側、歴史公園に復元された「山手御門」へ。


山手御門は、甲府城に三つあった出入口の一つです。土橋によって堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成される山手御門を通って、ここから南の城内(現・舞鶴城公園)に出入りできました。しかし明治期に破却され、今では線路で分断されています。
発掘調査では堀石垣群跡と土橋跡が検出されました。石積みの状況と文献史料から城内の天守台とほぼ同時期の天正末期から慶長初期(16世紀末~17世紀初)頃に造られたと考えられます。防御上重要な箇所なので、石垣の完成と同時に櫓門の建造が始まったと想定されます。当初の建造物の史料はありませんでしたが、情報量が多く信憑性が高い「楽只堂年録」絵図をもとに建造物規模を推定しました。また、発掘された石垣遺構に基づいて位置を定めました。
このようにして、「楽只堂年録」に描かれた時代(18世紀初)の姿に復元しています。
-案内板より


山手門
「楽只堂年録」絵図には、両脇に低い石垣と土塀も描かれており、近世城郭の主要な虎口では、外側に高麗門、内側に櫓門を設けております。
門扉を支える両側の鏡柱の上に冠木を渡し、前後に腕木を出して切妻屋根を架け、鏡柱の背後にそれぞれ控柱を建て、本屋根より小振りな切妻屋根を載せる特徴的な構造です。-案内板より

山手渡櫓門(枡形虎口ない側)

山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)
「楽只堂年録」絵図には、石垣を渡し架けているように描かれており、一層目の門の上に櫓が載る櫓門形式の門としています。
一層目は石垣の間に門扉、ケヤキ材の鏡柱、添柱等が配置され、75cmもの太さの大梁等を支えます。二層目の規模は「甲斐府中城図」等複数の絵図に記されている3間×7間としています。-案内板より

山手渡櫓門(城内側)


石垣
石垣は検出遺構や明治期に撮影された古写真等を参考にして、自然石を積み上げる「野面積み」を基本としながら、中に粗く割った石を取り混ぜて、様々な大きさの石をバランス良く配置して積み上げています。石積みの隙間には詰め石を施します。山手門から入った正面には、鏡石として巨石(畳2畳約8t)を配置しています。「楽只堂年録」絵図に記されている「高さ一丈五尺(15尺≒4.5m)」をもとに石垣を積んでいます。石段も記されている段数に基づいて復元しており、きつい勾配になっています。-案内板より


土塀
「楽只堂年録」絵図には、石垣の上部に白く土塀があることが描かれており、一部の土塀は長さが記されております。土塀は、防御のためのもので、石垣の上に造られるため、内側には転倒防止のための支え柱を建てています。矢や鉄砲を放つための「狭間」と呼ばれる四角形や三角形などの穴が開いています。-案内板より

山手渡櫓門と天守台

山手御門前の土塁と堀跡

つづく
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