北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
甲斐の国・甲府と言えば武田氏を思い出しますが、ここ甲府城は、
武田氏が滅びてから本格的に築城された梯郭式平山城です。

本丸から見た鉄門
本丸から下り、銅門跡・内松陰門を通り、稲荷曲輪へ。

本丸から見た内松陰門の枡形虎口

銅門跡


銅門の礎石


内松陰門(うちまつかげもん)内側 外側
屋形曲輪(やかたくるわ)とニの丸をつなぐ門です。
明治のはじめまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成11年に復元しました。 -案内板より

内松陰門から本丸を見上げる。

稲荷曲輪と井戸


稲荷(艮)櫓横の出入口
(古地図にはないので公園整備の時に造られたのだと思う)


稲荷櫓(いなりやぐら)
城内の鬼門(北東)に位置することから艮(うしとら)櫓ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかりました。今の建物は、この遺構や史料などをもとにできるだけ当時の姿に復元したもの、平成16年に建築しました。
櫓の外観:二階層 入母屋造り 瓦葺き 白壁 窓 鯱 北・東側に石落とし
櫓の規模:南北(梁間) 五間(10m) 東西(桁)六間(12m)-案内板より

稲荷櫓から見た天守台と稲荷曲輪


石落としから石垣を見る 武者走り

稲荷櫓から北方面を見る
(線路で分断されているが、甲府城に三つあった出入口の一つ山手御門が見える)


甲府城の歴史 甲府城模型(クリックで拡大)
甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。
関ケ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく発展しました。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となりました。
このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川家直轄領であったことからも、ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかります。
明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒醸造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えていきました。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏の尽力によって国からの払い下げを受け、県有地となりました。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となりました。 -案内板より
つづく
当ブログの無断使用は禁止です。
メッセージにて確認をして下さい。その上で、
文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。