~北へ~(441)80日目⑬ 日本100名城 甲府城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





甲府城本丸南側に位置する左右に石垣を有した2階建ての
櫓門・鉄門(くろがねもん)を通り本丸へ。(上図⑤)


 鉄門(くろがねもん)(2013年度復元)

 

鉄門は、本丸(ほんまる)の南西、本丸と天守曲輪(てんしゅくるわ)のさかいめにあった櫓門(やぐらもん)で、明治時代の初めまで存在していました。しかし、明治6年(1873)に全国の城の保存・廃止が決定されると、明治9年(1875)には甲府城の建物のほとんどがこわされてしまいました。
柳沢吉保の記録『楽只堂年録(らくしどうねんろく)』には、宝永2年(1705)に城内の建物などの名前を変えたという記録があり、その中に鉄門の名前がありました。また、『楽只堂年録』にある絵図にも、鉄門がかかれています。そのほかにも、発掘調査(はっくつちょうさ)や江戸時代初めにかかれたとされる絵図から、江戸時代の初めには鉄門があったと考えられています。また、明治時代初めの古い写真や古文書(こもんじょ)によって、明治9年にこわされてしまうまでは鉄門がたしかに存在していたことがわかっています。 -山梨県公式Webより



 鉄門の櫓内から中の門跡を見る


 甲府城本丸跡

      
  謝恩碑
本丸西隅に建つオベリスク型の塔。大正六年から三年の歳月をかけ山梨県により建設されました。碑の高さは18.2m、碑台を含めると25.6m。石材は甲州市の恩賜林内から切り出された花崗岩です。

 
 謝恩碑碑文(現代訳)
明治四十四年三月十一日、明治天皇陛下は度重なる水害に悩んでいた山梨県の復興のために、陛下の管轄にあった御料地を県の財産として与えてくださり、以後、山林をよく手入れして国土を守るようにとおおせになった。陛下のこの厚くありがたい御心に県民はこぞって感激し、県議会ではさっそくこれを恩賜県有財産と名づけて陛下の御心に添うように努め、県もまた新しく恩賜県有財産管理課を設置して積極的に区画の管理に当たるようにした。さらに翌年には、管理に必要な規則を公布して、境界を調査し面積を明らかにした。次いで植林や伐採に関する大綱を定め、森林が県内の至るところに競うように繁ることを期待した。こうした県の施策に基づいてどの郡や村でも同じように森林を愛護しなければならないということを知り、また度重なった水害の悲惨さを思い起こしては、おそれないものはなかった。そういうわけで陛下の御心をありがたく思い、感激することしきりであった。
考えてみると、本県の地形はまわりには重なり連なった高い山々がけわしくそびえ、地質の弱いところが多い。それ故、激しい雨がいく日も降ると、がけがすぐにくずれ落ち、土砂が平地に流れ込んで、長年にわたって大きな被害を受けた。特に甲府の付近一帯は高い山に囲まれて多くの川が集まっている地形であるから、その被害は甚だしかった。これより先の明治四十年八月の水害のときには、濁流が山や丘を切りくずし、見渡すかぎりの村々は勢い盛んな泥水にのまれ、人や家畜がたくさんおぼれ死に、田畑は河原となってしまった。このことは、陛下のお耳に達し、陛下は特別のおぼしめしをもって近くにおつかえする者を本県に派遣して実状を調査するとともに、慰問に御心を配られた。続いて四十三年八月にもまた水害があり、このときは前よりやや小規模ではあったが、四十年の水害のときの被害もまだ復旧していなかったため、地力はやせ衰えていて、人々は一段と心配の色を濃くしたのであった。
このように、しばしば災害を受ける原因といえば、本県の地形はその面積の八割を山林が占めているにもかかわらず、無計画に木を切っていたため、良材が残らないばかりか、枯れ野を焼く火が低い山や谷にまで及んで緑はますます薄くなるばかりであり、とうとう長雨が山をくずしたり、濁流が堤防を切り崩したりして災害を起こすようになってしまったのである。
今、われわれ県民は無計画に木を切り災害をこうむった当時のことを思い出すとき、陛下がそのことを戒め県土を守ることを諭されたありがたい御心に報いようと発奮し、謝恩のための記念の事業をしないでいられようか。ここに県議会の議決を受けて舞鶴城址に良い場所を選び、ここに謝恩の碑を建てるため碑石を東山梨郡神金村(現甲州市塩山)から見つけることに成功した。この地はもともと御料地の一画であった。こうして予定の地に碑を建て、陛下の御心に感謝する碑文を記して県民の心に永遠に伝えようとするものである。私、春樹(山梨県知事・山脇春樹)は、かたじけなくも本県知事に着任し、これを実現し得たことは誠に感激にたえないものである。
したがって、事の大略を右のように記して最後に次のような銘文を掲げる次第である。
山梨県は高い山々や高原を持つ地形でありながら、その連峰は緑が少なく、木こりや草刈りの人々が山林を荒らしている。
一度は長雨が降ると山からの濁流が四方に押し出し、家々は土砂流に流され、田畑は水の深い所と化してしまう。
この時に明治天皇陛下のありがたい御心により、本県内にある御料地をわが県に与えられた。すべての県民は感激して陛下の御心に報いるために、将来、美しい森林が繁るようにと心から願う。
陛下の御心は甚だ深く、県民は永久に感激し、堅固で美しい石を碑とし、ここに県民すべての心を刻みつける。
大正八年三月
 山梨県知事従四位勲三等・山脇春樹・撰文 -山梨県公式Webより



 本丸東側にある天守台



                               つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。