~北へ~(437)80日目⑨ 甲斐国総社 八幡神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


甲斐国守護 武田氏の居館「躑躅ヶ崎館」から「甲斐總社 八幡神社」に。

     

由緒沿革
 甲斐源氏の始祖新羅三郎義光より四代石和五郎武田信光、承久年中鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を石和の館に勧請し、武田家の氏神として国衙八幡宮(今、石和若宮八幡)と称へ尊崇し奉った。永正十六年武田信虎躑躅ヶ崎へ築城するに及び今の甲府市峯本の地に遷座(今、古八幡)され、さらに武田氏との深い関はりにより武田信玄の時国内の惣社、府中八幡として永禄三年神家五ヶ条の条目を賜はり、甲斐国九筋百六十四社の神主をして二日二夜ずつ二人交替に社詰参籠して国家安泰を祈願する番帳を賜る。武田家滅亡の後徳川家康入国して社参し、社殿の造営を仰せつけられ旧規の如き条目及番帳を賜はる。(甲斐国志所載)浅野長政甲府城を築城するに文禄四年現在の宮前町(旧古府中町)へ奉遷し奉り府城の鎮守祈願所とし甲斐国総社と称し奉り崇敬された神社である。明治以降は県社(第一号)に列せられる。 -山梨県神社庁Webより

 
          石工・遠藤 御代春  昭和2年9月吉日建立


 拝殿



 御祭神は、
誉田別命、息長帯姫命、姫大神  で、ございます。

 
 やまなしの歴史文化公園 北山野道
八幡神社
 この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して、国衙八幡宮と称したのが始まりといわれています。 永正16年(1519)に、武田信虎が躑躅ヶ崎に館を築く際に、館の西側に移され府中八幡と称されました。この場所は、 現在の相川小学校の南西部にあたり、旧敷地の一部は同校の体育館敷地となっています。武田氏滅亡後、甲府築城の際に 祈願所ならびに御城鎮守の氏神として現在地へ移され、甲斐惣社八幡宮と呼ばれ、江戸時代を通じて、特別な扱いがされていましまた。 -説明板より

 
 本殿

    
 営繕之碑の説明(クリックして拡大)

    

   
   やまなしの歴史文化公園 北山野道
  夢見山伝説
むかし、武田信虎が現在の夢見山に登ったときの事、急に眠くなり石を枕に寝入ってしまいました。すると、夢に1人の男が現われ 「今、甲斐国主として誕生した男児は、曽我五郎の生まれかわりである」と告げました。間もなく城から若君(後の信玄)誕生の知らせがあり、 喜んだ信虎は勝千代と名づけました。
ところが、勝千代の右手は握ったまま開きません。心配した信虎が天桂和尚に相談すると和尚も 同じ夢を見ていて、男は「その子の右手には金龍の目貫一辺がある。城東の池で洗えば右手は開く」とつげ、もう一辺の目貫を和尚に渡して 消えました。信虎が言われたとおりにすると勝千代の右手は開き、中から目貫が出てきて和尚のものと符合しました。
このことからこの山は夢山、または夢見山と名付けられたということです。
 -説明板より






武田氏所縁の神社で、惣社と伝わる神社に参拝が出来ました。
が、無人社で御朱印は頂けませんでした。




                               つづく







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