~北へ~(429)80日目① 山梨県護国神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





80日目は、山梨縣護國神社への参拝から始めました。


  二の鳥居

     
  社号標(左)
参拝の道標(右)
ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
   山梨縣護國神社<     -案内板より


   
参道と三の鳥居


 
訪れた日は、多くの方が集まり清掃を行っておりました。


 社殿

 

由緒沿革
 明治十二年十二月、山梨県神道事務局の発議によって、甲府市太田町公園隣接地に招魂社が建立され、西南の役に出征して戦没した本県出身者の御神霊を奉斎し、年々盛大に慰霊の祭典が執行された。明治四十一年甲府連隊創設に伴ひ太田町遊亀公園内に招魂堂を再建し、西南の役以来の戦争で戦没した英霊を合祀した。昭和十四年に山梨縣護國神社創建会が設立され、昭和十七年十二月七日甲斐の古蹟躑躅ヶ崎の南麓において地鎮祭執行となり、昭和十九年十一月二十八日内務大臣の指定があり、山梨縣護國神社が創建となった。同月二十九日鎮座祭が行はれ、明治聖代以来の戦争、事変等で一死報国の誠を捧げた諸勇士の御神霊を招魂堂より奉還し、同月三十日竣工奉告祭並びに例大祭が執行された。昭和二十一年十月十二日社名を山梨宮と変更したが、昭和二十七年十一月十二日再び山梨縣護國神社と改名した。御祭神は西南の役(明治十年)五〇柱、日清戦争(明治二十七年~二十八年)五六八柱、日露戦争(明治三十七年~三十八年)四四九柱、台湾討伐(大正三年)五五柱、満州事変、上海事変(昭和六年~九年)七三柱、支那事変、満州事変(昭和十二年~十六年)一、七八四柱、大東亜戦争(昭和十六年以降)二二、〇六八柱で、合計二五、〇四七柱が合祀されてゐる。昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱は、昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建して祀った。御祭神は加賀美光章命(学者)、志村天目命(心学者)、関戸左近命(郡内の義民)、金子重右ヱ門命、三沢重右ヱ門命(太桝事件主唱者)、長田圓右ヱ門命(御嶽新道開削者)、徳島兵右ヱ門命(徳島堰開削者)、くり女命(節婦)である。又、平成十一年より山梨県出身の殉職自衛官十一柱を合祀してゐる。当神社は皇室の御崇敬も厚く、終戦十年、二十年、三十年の三回天皇陛下より幣帛料の御下賜があった。常陸宮両殿下が昭和四十七年十月十四日御親拝された。元皇族賀陽宮様も戦後三回参拝されてゐる。 -山梨県神社庁Webサイトより

 
 拝殿ない

  
   本殿

          
 




                               つづく







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