~北へ~(427)79日目④ 日本100名城 高遠城Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





高遠城三の丸に建つ藩校「進徳館」を出て、二ノ丸、本丸へ向かいます。

 

高遠城の縄張りは中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用
として三層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てら
れており、堀と土塁に守られ、長大な長塀に囲まれた近世城郭でありました。

 
                            
二ノ丸から空堀に架かる「桜雲橋」を渡ると「問屋門」です。
(空堀は傾斜度40度、幅15m、深さ17mという規模の大きな堀)



           
 問屋門                          天下第一の桜の石碑
この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、
また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人を置いていた。
高遠の問屋は、二人の名主との合議によって町政にも参与していた。
昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、
歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことが出来ない景観シンボルとなっている。
-案内板より

 
 本丸跡に鎮座する新城 藤原神社

 
 新城(仁科盛信)神社・藤原神社
天保二年(1831)高遠藩内藤家七代藩主内藤頼寧は、家臣中村元恒の建議により、
天正十年(1582)高遠城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武田晴信(信玄)の五男、仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀る崇拝した。
以前より城内には、先代内藤頼以が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、廃藩後の明治十二年(1879)この神社を「新城神」と合祀して今日に到っている。
なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在、高遠町歴史博物館に保管されている。-案内板より



 本丸跡
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらに、その外側に三の丸を廻らせた城郭三段の構えをもっていた。
天正十年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替り、元禄四年(1691)からは内藤氏が廃藩まで八代、百八十年間にわたって城主であった。
江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守はなく、平屋造りの御殿や櫓、土蔵などがあった。
本丸御殿は政庁であると共に藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治十八年(1875)ごろに移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。-案内板より


   
   太鼓櫓
江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。
鼓楼は搦め手門の傍らにあって、楼上に三鼓を備え、常に番人を置いていて、時刻が来ると予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。
廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設され時を報じていたが、明治十年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年(1943)まで続いていた。
戦後、太鼓は三の丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、
現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。-案内板より


  
 南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二ノ丸とは土橋でつあがっていた。
本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。また、明治三十年(一八九七)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるにあたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。-案内板より


 
 高遠閣  (登録有形文化財)
高遠閣は、昭和八年当時、高遠城跡公園内に会館を建て、町民の集会や観光客の便に供することが町お発展のため有意義ではないかという愛町の思いから東京高遠会の有志の発案により、日本画家池上秀畝氏、出版業矢島一三氏、鉱山業廣瀬省三郎氏、弁護士小松傳一郎氏の四名の寄附により、当時の町長廣瀬常雄氏の協力おもと棟梁竹内三郎氏を中心に建築が進められ、昭和十一年十二月六日に完成しました。
この建物は間口十四間(25.4m)、奥行九間(16.4m)、峯高十間(18.2m)、木造総二階建、入母屋造、鉄板葺(建築当時はこけら葺)の大規模建物で、大正・昭和初期の稀有の建物として平成十四年八月二十一日に国の登録有形文化財として登録され、長野県天然記念物桜樹林の中に高くそびえる赤い屋根の偉容は、遠方からも眺められ史跡高遠城跡(昭和四十八年五月二十六日指定)のシンボルとなっています。
平成十五・十六の二ヵ年に渡り施設の保存及び有効活用を図るため、構造補強、バリアフリー等の工事を行い平成十六年十月十一日に完成しました。
地域住民の各種活動の場として、史跡高遠城跡を訪れる観光客お皆さんの休憩所等として利用されています。 -案内板より



 勘助曲輪(史跡 高遠城跡内)
指 定 国指定史跡 昭和48年5月26日指定
所在地 伊那市高遠町東高遠
所有者 伊那市ほか
高遠城は戦国時代は、武田信玄の命により山本勘助が縄張り(設計等)したと伝えられています。勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助に由来しますが、築城当時この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われています。かつては、この駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷となっていました。曲輪周囲の堀は、戦後埋め立てられ、旧高等高校グランドとして使われた後、現在は駐車場となっています。勘助曲輪の広さは七六九坪(二五四二m2)で、曲輪内には櫓や祭事務所、硝煙小屋、稲荷神社がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘助稲荷として、西高遠の相生町に祀られました。 -案内板より



         
           日本100名城スタンプ
             高遠城(30)


構造物も少ないので、お花見に合わせて登城する方が良い、
城址公園でした。






                               つづく







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