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兜山城の別名をもつ高遠城は、諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていたが、
武田勢に攻め落とされ、武田のモノとなると足軽大将の山本勘助や譜代
家老の秋山虎繁(信友)によって大規模な改築がされたという。


武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は織田家臣・毛利長秀が支配する様になるが、
支配の実態は不明である。

本能寺の変が起こるとその混乱に乗じて、上伊那郡福与城を拠点としていた
藤沢頼親が高遠城を奪還し、家康へ臣従した。
その後は家康方の保科正直が高遠城に入り、江戸時代になると高遠藩の
藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代。

元禄四年(1691)に内藤清枚が3万3千石で入封。
以後、内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。

伝高遠城大手門


伝高遠城大手門
勘助曲輪の道向かいに建つ。この門は、高遠高等学校がこの地にあった昭和59年(1984)まで正門として使用されていた。明治5年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命じられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。
当時、城内には大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。 -案内板より


国指定史跡
進徳館 (指定 昭和四十八年五月二十六日)
進徳館は高遠藩内藤家八代内藤頼直が前藩主頼寧の遺志を受け継ぎ、藩士中村元起の熱望により
大学頭林復斎の助言を得て、万延元年(1860)三月郭内三の丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設した藩学校です。
頼直が「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先成るは無し」と藩学校設立の趣意を説き、老職岡野小平治を文武総裁に任じ、中村元起、海野幸成を文学師範に命じて、和学、漢学その他筆学、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術。柔術、後に洋学を講ぜしめた。
優秀なる教授を網羅して、進歩的な教育が行われ、多くの偉材を育成し、特に教育界に中堅人物を輩出した。
旧進徳館の主要建物は八棟造り、平屋茅葺きで現存するものは前通りの東西二棟と玄関及び表門で、その他は明治四年(1871)閉鎖後取り払われた。
前通り西棟は聖廟、総裁、学監教授方師範詰所、教場、生徒控所などを含んだ講堂で、東棟は生徒控所であった。
進徳館は松代文武学校と共に信濃諸藩の藩学中その遺構を最もよく存するもので貴重な史跡である。-案内板より

進徳館 表門

建物正面外観


扁額



孔子廟と五聖像
五聖像とは、儒学の祖である孔子と、孔子の高弟で四賢人と言われる孟子、曽子、顔子、子思(子思子)を彫刻して祀った像のことです。
江戸時代、儒学を教えた幕府直営の昌平坂学問所(現:東京都文京区湯島聖堂)や各地の藩校では、敷地内に廟を設け孔子を祀っていました。進徳館でも、開校から2年後の文久2(1862)、辰野村(現:辰野町)の小沢伝十が孔子像を献上し、館内に聖廟が設けられました。さらに3年後の元治2年(1865)、北福地村(現:伊那市富県)の那須隆達ら4名の申し出により、四賢人の像が献上されました。これらの像は昌平坂学問所の大聖殿に祀られていた像にならったもので、江戸の絵師・野口幽谷が模写した絵を原図として、松川村(現:松川町)などの彫刻師が桂の材を用いて彫り上げたものでした。
元治2年2月中旬、五聖像がそろって初めての釈奠の日(孔子を祀る典礼)には、藩主(代拝)、藩重巨、職員、生徒らが参加して盛大な式典が行われました。五聖像の座位は、孔子の生誕地・中国山東省曲阜にある孔子廟内大成殿の座位に従っています。
明治時代になり進徳館が廃校となった後も、五聖像は大切に守られてきましたが、経年による傷みから保護するため、平成9年(1997)に高遠町歴史博物館へ収蔵され、平成14年(2002)には伊那市有形文化財(彫刻)に指定されてました。
-案内板より

複製です。本物は先程見学した高遠歴史博物館にありました。



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