北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
分杭峠をあとにして、高遠城に向かいます。

相変わらずの小雨。

高遠の街中に入りました。

高遠町歴史博物館に到着です。

お静地蔵の由緒
この三体のお地蔵様はお静の方がわが子正之の成長・栄達を祈念し、目黒にある成就院に寄進したものであります。
その願いが叶い、生涯を終えられたこの高遠の地に成就院のお静地蔵を縮小し建立いたしました。
お静地蔵は、今なお霊験あらたかな大願成就地蔵菩薩として信仰されております。
-案内石碑より

保科正之公 生母お静(志津)
保科正之公(幼名 幸松)の生母お静は天正12年(1584)小田原で神尾家二女として誕生しました。成人して25歳のとき、二代将軍徳川秀忠公の乳母付き侍女として江戸城に奉公しました。容姿端麗にして聡明な素養を身につけていました。まもなく秀忠公の寵愛を得て子を身籠り、慶長16年(1611)に幸松は誕生しました。しかし秀忠公の正室お江与の方は大変嫉妬深く、お静と幸松は危険を避けるため、武田信玄の娘見性院と信松尼の愛情と助けを得て、江戸城内の比丘尼屋敷で暮らしました。
元和3年(1617)幸松7歳の時に、高遠城主保科正光公の養子となり、母子ともにこの高遠に迎えられました。正之公は知将の武士たちから教えを受け、同時に四季折々に展開する大自然と人々の営みからも多くを学ぶ鋭い感性を研き、清貧な人格を身につけていったのでした。お静は秀忠公が他界後は浄光院と名を改め、母親の深い愛情を幸松にそそぎ大成を願っていました。
正之公は21歳で高遠城主となり、25歳の時お静は52歳の生涯を高遠の地で終えました。江戸の目黒にある成就院は、三大将軍家光公が正之公を異母兄弟だと知らされた逸話のある寺です。そこにはお静が正之公の大願成就を願い奉納した金剛宝・金剛憧・金剛願の地蔵があり、これをお静地蔵と呼んでいます。
正之公は7歳から26歳まで高遠で心身を鍛え凛凛しい青年に成長しました。その後家光公の信頼は益々深まり、高遠藩の人々を伴って最上藩から会津藩へと転封されました。
兄家光公没後、慶安4年(1651)41歳からは江戸に招かれて、20年間四代将軍家綱公を助けて武断政治から文治政治へ転換を図りました。この間民衆の立場に立った人道主義的善政を実施し、幕政と藩政を両立させながら江戸幕府265年の基礎を築き上げました。
高い理想と安全安心の世の中をめざした正之公と大願成就を願った慈しみ深い生母お静の顕彰碑をこの地に建立します。
平成二十一年四月四日 伊那市観光協会 -案内石碑より
高遠町歴史博物館に入館し、高遠城の情報収集と復元家屋を見物。

貴船社山車
博物館ないは、釣手土器(市有形文化財)や五聖像(市指定有形文化財)
などの展示がされていました。(撮影禁止)

絵島の囲み屋敷
絵島(江島)は七代将軍徳川家継の生母、月光院に仕えて大奥に入り、やがて出世して大年寄りとなり大きな権勢を掌握するに至ったが、事件を起こした高遠に永々遠流となった。
絵島事件は、正徳四年(1714)正月十二日、月光院の名代で芝増上寺の前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途、「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。
家宣の正室天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか死罪二名、流罪十名、その他大勢の人々が罪に問われる当時としては非常に大きな粛清の嵐であった。
月光院の口添えにより減刑され遠流となった絵島は、最初この場所から四キロメートル上流の非持(伊那市長谷)の囲み屋敷に入れられたが、享保四年(1719)この花畑の地籍に移された。
そして寛保元年(1741)四月、六十一才で病死するまでこの囲み屋敷で幽閉の生活を送ったのである。
この囲み屋敷は残存する古図により昭和四十二年ほぼ同じ地点に復元されたものである。-案内板より




当時の牢屋敷、初めて見る事が出来ました。
つづく
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