~北へ~(420)78日目① 能登国総社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





78日目は、能登國總社に参拝からです。

 

 由来
崇神天皇の御代の創立と伝えられ、大穴持命が能登国に臨幸巡国経営の際に神恩を仰ぎ、その御座された石を神体と崇め、社殿を建立したのがその創始であると伝えられている。円融天皇のとき、源順能登の国司として下向の節当神社を再建し、能登国中の延喜式内43座の神を勧請、幣帛神田社領を奉幣寄進され能登国総社と称する。その後畠山泰国より国守守護の神社として尊敬され歳時奉幣された。古府、古城、小池川原、藤野、後畠の産土神であった。 -石川県神社庁Webより

    

ご祭神は、
能登国式内四十三座神 
健御名方神        で、ございます。

       


 拝殿

 
 総社由来
能登国内四十三座の神を祀るほか 一九〇七(明治四十)年合祀した諏訪神社の建御名方神を祀る。旧社格は村社。能登国の総社である。
総社は平安中期から後期にかけ国司が管内の官社などの神霊を国衙に近い地に勧請して奉幣参拝の便をはかったのに起源するという。
社伝によれば往古大穴持命を奉祀したのに始まり源・順が能登守のとき再建して能登国中の式内四十 三座の神を勧請したという。
[能登国式内等旧社記]には「惣社矢田 郷古府村鎮座。称惣社明神或云惣座宮。往古国府神拝之惣社也」とある。
春祭四月十八日、秋祭十月十八日。
一六三八(寛永十五)年の三番叟図額三十六歌仙額や一六四一(同十八)年の絵馬額がある。-境内石碑より


 
 社号額


 拝殿ない


 力石(盤持石)


本殿は覆屋により、拝する事は出来ませんでした。





                               つづく







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