北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
中宮祈願殿に続いて、前立社壇に参拝です。


前立社壇は、平安初期に建てられた立山寺(岩峅寺)を前身とする
神仏習合の施設で、岩峅寺における立山信仰の拠点でありました。
武将や公家からの信仰も篤く古来より「立山権現」への献上品は、
こちらに奉納されています。

御祭神 伊邪那岐之神・天之手力男神
御由緒
伊邪那岐之神は天地開闢の初祖神の詔を奉じて修理固成の天業に就かせ給ひ皇土群品の祖現世司命の神に坐します。
天之手力男神は皇國肇造に當り天の岩戸を開きて、皇祖の御稜威を光被せしめ給ひ天業翼賛に神功を顕し給へる神に坐します。
抑も本社の鎮座は悠遠にして詳かならずと雖も社傳に依れば文武天皇の御宇大寶元年越中守佐伯有頼神教を蒙りて立山を開き社殿を創立せりと傳ふ。
神階は清和天皇貞観五年九月正五位上を、宇多天王寛平元年八月従四位下を授けられ給ひ延喜の舊社にして世々領主武将の尊崇篤く多くの社領社僧を有し規模宏大越中随一の大社たり。又日本三霊山の一として崇敬者全國に洽く古来越中にては男子十五歳にして立山に登拝せざる者は男子の數に入らずとの傳統的信仰有り夏季登拝する例とせり。
畏くも、聖上陛下大正十四年新年の御歌に「立山の空にそびゆるををしさに、ならえとぞ思ふ御代の姿も」と詠ませ給ひてより神威彌々四表に輝き給ふ。明治六年縣社に、昭和十五年十一月國幣小社に列せられ給へり。
當社神殿は建久年中源頼朝の創建にかかり其後足利義稙・佐々成政造営せるものにして明治三十九年國寶建造物に指定せらる。 -案内板より

西側に位置する表神門
立山信仰の入り口に位置している特性上、本殿を挟んで両脇に
鳥居(表鳥居・東鳥居)と神門(表神門・東神門)が存在する
作りも前立社壇の特徴の一つであります。

垣ない(正面奥に見えるのが東神門、左手が拝殿)

垣ないから見た表神門

拝殿




拝殿ない
つづく
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