~北へ~(405)75日目⑩ 高田城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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高田城は天下普請によって造られ、城地の縄張りと
工事の総奉行は忠輝の舅の伊達政宗であります。


 稲葉正通時代「高田城図間尺」
本丸跡                      
高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原(ぼだいがはら)の地を主郭に徳川家康の六男松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした.本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40~50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1,000mありました。石を用いず2ヵ所の内桝形門と1ヵ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。現在の本丸内郭跡は東西215m.南北228mの広さで.この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。天守閣を造らず.塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヵ所.御茶屋台1力所などが設けられていました。この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝歴地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されましたが、明治3年(1870)の火災によって再び焼失し、以後再建されませんでした。高田城は、慶長19年(1614)から8家18代の城主が交替し.257年間続きましたが明冶4年(1871)にその幕を閉じました。
明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に土塁が切りくずされ城跡は変形しましたが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています。
-案内板より



 三重櫓(天守)(南面)


 三重櫓(独立式望楼型3重3階鉄骨造復興)
高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「後三階櫓」と呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886年)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を十分にふまえて再建されたものです。内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の出張りを付けています。1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。櫓の東側に付随して50m程の塀も同時に再建されました。-案内板より
    

天守は、可也高めの土塁の上に建ちます。

 
 西堀橋の上から見た虎口(往時は門があった)


現在は、野球場、テニスコート、弓道場、ウォーキングコース、高田図書館、
総合博物館などがある、高田公園となっている高田城。城好きとしては、
もう少し整備してほしいところですが…








                               つづく







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