北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
越後國一宮 居多神社を出て、高田城へ。

麺処 暁(高田公園近く)
行く途中に発見。腹ペコだったのでIN
マイルドな豚骨醤油に中太縮れ麺。大判のレアチャーシューに太いメンマ。
どれも平均的な味でした。チカラを入れている感が強いレアチャーですが、
中々イイ味です。が、油の部分が硬く、口の中で残り不快でした。
スープに浸しておけばOKなので、まぁ旨かったかな。ごちそうさま。

ちゃーしゅーめん
お腹も落ち着き、目的地の高田城へ。

高田公園の駐車場に停め、

二の丸から本丸に通じる極楽橋より登城開始です。


極楽橋 Gokuraku Bridge
極楽橋は、徳川家康の六男 松平忠輝が慶長19年(1614)、高田城を築城した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として設けられました。明治41年(1908)には、高田城に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ堀を埋め立てて陸続きとなった結果、極楽橋はその姿を消しました。現在の橋は、高田公園開園50周年及び市制30周年を記念して平成14年に復元されたものです。極楽橋の復元にあたっては、古文献、史料及び発掘調査等により可能な限り旧形状を再現するよう努め設計を行いましたが、すべてを木造とし旧形態を忠実に復元することは、安全性、構造耐力、法規制、維持管理等の面からさまざまな問題が生じるため、目に見えない構造の根本となる部分は鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用した"近代的な工法"を採用し、直接目に見えたり、手に触れる部分は木材や石などを使用した"伝統的な工法"を採用し、復元を行いました。復元工事を行う前に行った発掘調査では3列に整然とならんだ極楽橋の橋脚が見つかっています。右の写真は調査によって発見された橋脚で、6本から7本の木がまとまって見つかっています。-案内板より




本丸の構造と三か所の門 (左)
The structure of Honmaru (inner bailey) and Three gates
高田城の本丸郭(城の中心部で城主の生活したところ)は、静真郭御殿と呼ばれました。現在の広さは東西215メートル、南北228メートルあります。形状は鬼門除けや内枡形門などの関係で複雑でしたが、土塁の入隅・出隅、屈曲などを活用して御殿配置がなされました。枡形土塁のなくなった現状よりも、御殿用地はかなり狭かったと思われます。
鬼門とは、鬼の出入りする方角とされる北東の称で不吉とされ、城の場合は角を潰して変形にしました。高田城は大がかりな鬼門除け工事を行いました。
本丸の虎口(出入口)は、本城御門(南門)東不明門(東門)・北不明門(北門)の三か所ありました。南門と東門は内枡形門で、北門はカギ形門でした。現在の西側からの入口は明治以降に切り開かれたものです。
枡形とは、出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防御を固めた施設です。郭の内部に設ければ内枡形と呼ばれました。
高田城の本丸御殿は、江戸幕府の天下普請にふさわしい立派な御殿でした。
-案内板より
高田城の廃城と陸軍第十三師団 (右)
高田城は、慶長19年(1614)、徳川家康の六男、松平忠輝か築城し、本丸・二の丸・三の丸をあわせ、約19万坪(約58ha)の敷地がありました。しかし、たび重なる地震や火災の被害を受け明治4年(1871)に廃城され、城や池は陸軍省の所有となりました。明治23年(1890)に政府は軍事費を得るため高田城の売却を決め旧藩主である榊原家に払い下げることになりました。旧高田町は明治40年(1907)に第十三師団誘致のため、榊原家から城や池を
買い戻し、陸軍に献納しました。陸軍第十三師団は明治41年11月に入城をはじめましたが、師団の入城の前に行われた大土木工事によって、土塁は崩され、堀の一部は埋められ、二の丸、三の丸の区画は無くなりました。本丸跡には師団の司令部が置かれ、二の丸には偕行社が置かれました。右の写真は当時の司令部の写真で、極楽橋付近から本丸を撮影したものと推察されます。
-案内板より


高田城 本丸
Hon-maru site
高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原(ぼだいがはら)の地を主郭に徳川家康の六男松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした。本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1,000mありました。石を用いず2ヶ所の内枡形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所などが設けられていました。この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されましたが、明治3年(1870)の火災によって再び焼失し、以後再建されませんでした。高田城は、慶長19年(1614)から8家18代の城主が交替し、257年間続きましたが明治4年(1871)にその幕を閉じました。明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に土塁が切りくずされ城跡は変形しましたが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています。
-案内板より

高田城下絵図
つづく
当ブログの無断使用は禁止です。
メッセージにて確認をして下さい。その上で、
文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。