北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
73日目は、新潟県総鎮護 新潟縣護國神社の参拝から始めました。

一の鳥居


参道を進むと「戊辰役殉難者墓苑」がございました。


戊辰新潟戦争
慶應四年(明治元年)正月鳥羽伏見で戦が始まり薩長を主力とする西軍は四月柏崎・小千谷を占領七月には長岡を攻略しました。一方七月二十五日海路より松ヶ崎に上陸し二十九日までの五日間新潟の町は戦場と化し、対する東軍(米沢・会津・庄内)との間で激戦が繰りひろげられ多くの兵が戦死いたしました。西軍戦死者の墓碑は明治八年常盤ヶ丘に建立されて招魂社となり、その後昭和ここに移管されました。昭和六十年に至り旧新潟大学本部跡地(元招魂社跡)から東軍のものと思われる九十二体の遺骨が発見されここに埋葬されております。この度二度目の戊辰にちなみ、多くの方々の協力により東軍の慰霊碑が建立されました。ここは東西両軍区別なく、いずれも国に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります。異郷の地で果てた戦士よ安らかにお眠り下さい。
昭和六十三年十一月五日 新潟県護国神社戊辰霊苑-案内板より


その先の参道には、左右に慰霊碑が並んでおりました。






参拝者は居なかったので敷地内にある結婚式場の客か。社殿に後ろを向けて駐車するとは。
日本も常識のない人が多くなったな。

二の鳥居

社殿


由 来
当社は明治元年新潟市常葉南に招魂場をつくり、維新の際、国事に歿した忠魂を祭祀し明治元年10月29日に初の祭典を行った事に始まる。明治8年招魂社に改称し、明治10年社殿を建設、明治34年官祭社「新潟招魂社」となる。昭和16年7月内務大臣指定社「新潟護国神社」を創建することに決定、昭和17年5月8日(この日を記念日として大祭日とした)内務大臣建設許可を得て直ちに着工、県内各地より述べ25万余人の勤労奉仕と、八十余万円の浄財を得て、大東亜戦時下極度の資材と労力不足を克服して、昭和20年5月竣工。5月5日鎮座祭、6日官祭社新潟招魂社を合併、以来年々合祀祭を斉行して現在79,727柱の御神霊をお祀り申し上げている。
-案内板より

総檜作りの拝殿(平成七年竣工)

拝殿ない


明治大学戦没学徒忠霊殿
近代日本における対外戦争50年余の間、明治大学関係者は多数の戦没者を出した。その数は分かっていない。
大東亜戦争終戦の際、混乱のなかで奉納の戦没者名簿が紛失したといわれるが、 その数は学徒出陣を中心に、2000名余とも3700名余とも云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として、「忠霊殿」を建立した。
これは駿河台旧図書館(現研究棟前)内に置かれ、毎年7月10日に慰霊祭を行ってきた。
大東亜戦争の戦没者も合祀され、1950年、関係者の尽力により新潟縣護國神社に移され、明治大学校友会新潟支部(現新潟地域支部)主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護國神社の御厚意により、同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が新たに建立されたのを機に、 この間の経緯を記し、世界平和を願い永遠の追悼を誓うことになった。
2007年6月 明治大学 -新潟縣護國神社公式Webより

新潟県護国神社
御朱印
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
つづく
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