~北へ~(373)70日目④ 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮Ⅰ(出羽国一宮) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


吹浦口ノ宮に続き、蕨岡口ノ宮に。



       

鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮は、出羽国一之宮を称しております。


 一の鳥居と随神門


 随神門(境内側から見る)

    
  由緒 (左)
 社殿によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が蕨岡と吹浦のニケ所に鎮座する。
 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。
 後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
 中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年(1871)5月吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同13年(1880)7月に山頂本殿を国幣中社に改め、同14年(1881)に吹浦・蕨岡の社殿をロノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。昭和30年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。
 平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定された。
主な祭日(蕨岡口ノ宮)
一月七日   御種蒔神事  
四月二十三日  講社大祭
五月三日   例 大 祭  
六月二十五日  五穀豊穣祭
十一月十二日 新 嘗 祭       -案内板より


鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮境内 (右)
  平成二十年三月二十八日指定
鳥海山は、その雄姿と度重なる火山活動から、不安定な治安と相まって古代から神階奉授が繰返され、大物忌神(おおものいみのかみ)として崇敬されてきた信仰の山である。中世には修験道の霊場としてその地位を確たるものとした。近世になって、鳥海山を取巻く各地には、修験衆徒がそれぞれ活動拠点を設け、霊峰への登拝ロとした。なかでも蕨岡(わらびおか)の衆徒は、龍頭寺を学頭として、鳥海山表ロ、順峯・蕨岡三十三坊と称して、登拝ロの中でも最も強大な勢力を誇った。
本境内は、「大泉坊長屋門」(国登録有形文化財)など、宿坊集落の面影を残す上蕨岡(かみわらびおか)地区(通称「上寺」)のほぼ中央に位置する。庄内藩主酒井忠器公の寄進による「出羽一之宮」の扁額のかかる随神門(ずいしんもん)(かっての仁王(におう)門)を潜ると、右手に朱塗りの神楽殿が見えてくる。神楽殿では、五月三日の例大祭(「大御幣祭(だいおんべいまつり)」)にあたり、山伏の修行・通過儀礼と一体を成す芸能である「蕨岡延年」(山形県指定無形民俗文化財)が奉納されている。
さらに、参道を進むと、三の鳥居を経て、広い前庭をおいて、本殿が南面して建っている。かつての蕨岡ロの隆盛のありさまが偲ばれる豪壮な社殿である。この他、境内には、酒田の豪商本間光丘(みつおか)寄進の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(遊佐町指定有形文化財)や天保年間の三方領地替騒動に関わる矢部駿河守定謙を祀る末社荘照居成神社(遊佐町指定有形文化財)があるほか、約四百段ある石階を上った、松岳山中腹には、峯中修行の記念碑である「峯中碑伝」や、海抜150m程の低地に奇跡的に残されたブナ自然林(遊佐町指定天然記念物)がある。本史跡は、鳥海山の信仰、文化遺産を代表するものである。
-案内板より


     
      さざれ石






                               つづく








                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。