北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
久保田城周辺が規制されており、めし屋を探すのも億劫なので先に進みました。

すりばちラーメン 味一(由利本荘の街中、国道沿い)
腹減り状態で大きな街・由利本荘に入ると、ラーメン屋が数件あり。
「すり鉢」の看板に反応しIN
着丼。確かにすり鉢に入っているが、中身は普通の量。
すり鉢から勝手に大盛を想像してしまっていた。
麺は、もっちりとした中太で中々だが、スープは、出汁弱めで米麹の
残る白味噌。もう少し出汁が強い方がラーメンらしくなると思う。
具は、炒め野菜にコーンと定番だが、チャーシューは塩辛くツライ。

味噌チャーシュー
腹が落ち着き、国道7号を南下します。

向かった先は、出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮です。

鳥海山を神体山とする鳥海山大物忌神社は、鳥海山頂の本社と、
麓の吹浦と蕨岡の2か所の口ノ宮(里宮)の総称であります。


ご祭神は、
大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神)
月山神(月読命) で、ございます。

二の鳥居

手水舎

下拝殿


国指定史跡 鳥海山
鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮境内 平成二十年三月二十八日 指定
鳥海山(標高2236m)は、その山容の秀麗さから「出羽富士」とも呼ばれる信仰の山で、古くより、人々はこの山そのものを「大物忌神」として崇めてきた。大物忌神の文献上の初出は、「続日本後紀」の承和5年(838)5月11の条「奉授出羽国従五位勲五等大物忌神正五位下」という記述である。朝廷は大物忌神を国家に関わる重要な出来事を予言する神、そして、祭祀を疎かにすると、噴火鳴動する恐るべき神として認識していた。延長5年(927)に、大物忌神は吹浦で並記される「月山神」とともに「名神大」となり(『延喜式神名帳』)、その神階を「正二位」にまで高めた。
現在、鳥海山大物忌神社が鳥海山祭祀の中心的存在となっている。この神社は、鳥海山山頂の「御本殿」、そしてふたつの里宮「蕨岡口ノ宮」・「吹浦口ノ宮」の三社で構成される。とくに吹浦口ノ宮は、古代から鳥海山の神「大物忌神」と月山の神「月山神」を主祭神としてきたことから、「両所宮」と呼ばれてきた。この「両所宮」には、中世の鳥海山信仰の様態を示す貴重なふたつの文書(いずれも国指定重要文化財)が伝わっていることで知られる。
一 鎌倉幕府奉行人連署奉書
承久2年(1220)に鎌倉幕府執権北条義時の命に基づき、藤原氏と三善氏が連名で北目地頭新留守氏に送った書状で、庄内地方最古の文書とされる。この書状は承久元年(1199)に発生した将軍源実朝の暗殺事件の影響で両所宮の社殿の造営作業が遅滞したが、これを速やかに行うよう北目地頭留守氏に催促するものである。
二 北畠顕信寄進状
正平13年(1358)に、南朝の重臣北畠顕信が天下再興と奥州の平安を祈願するために、由利郡小石郷乙友村(現在の秋田県由利本荘市)を「出羽国一宮両所大菩薩」に寄進したことを示す文書である。「両所大菩薩」とは、大物忌神の本地仏にあたる薬師如来と、同じく月山神の阿弥陀如来のことを意味する。
中世に入ると、修験者たちは鳥海山山麓周辺に定着して修験集落を形成し、近世期以降、これらは鳥海山参りの拠点(登拝口)として機能するようになる。近世の吹浦には25坊・三社家・一巫女家が存在し、これらの修験世帯の人々が「両所宮神宮寺講堂」(現在の吹浦口ノ宮)で鳥海山祭祀を行った。彼らが継承してきた修験道の年中行事は明治初期の神仏分離を契機に、「管粥神事」(1月5日)、「大物忌神社例大祭」(5月4・5日)、「月山神社例大祭(御浜出神事・玉酒神事)」(7月14・15日)として神式で執行されるようになり、今日に至っている。
本境内の一ノ鳥居と二ノ鳥居をくぐり、参道を進むと右手に拝殿がある。これは桁行七間(約16.8m)梁間五間(約9.4m)の豪壮な社殿である。さらに約百段の石段を登ると「大物忌神社」と「月山神社」の両本殿が並び立っている。5月4日の例大祭宵宮には、この両社の前で「吹浦田楽」(山形県指定無形民俗文化財)の花笠舞が奉納される。宵宮においては花笠を山吹や八重桜の生花で彩るが、5日の本祭りでは鮮やかな赤い造花を装飾に用いる。このように、本境内は、古代から現代に至るまでの鳥海山信仰の歴史・文化を伝える重要な史跡となっている。
遊佐町教育委員会 -案内板より
つづく
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